2021年12月28日

狐の恩返し

「遠野物語」 柳田國男 角川文庫 

遠野物語拾遺 二〇〇より p150〜

「これは浜の方の話であるが、大鎚町の字安堵(あんど)という部落の若者が、夜分用事があって町へ行くと、大鎚川の橋の袂に婆様が一人立っていて、まことに申しかねるが私の娘が病気をしているのでお願いする。町の薬屋で何々という薬を買って来てくだされといった。たぶんどこかここにいる乞食でもあろうと思って、見かけたことのない婆様だが、嫌な顔もせずに承知してやった。そうして薬を買い求めて斯の橋のところまで来ると、婆様は出て待っていて非常に悦び、私の家はついこの近くだからぜひ寄って行ってくれという。若者はどういう住居をしているものか、見たいと思ってついて行くと、岩と岩とを間をはいって行って、中にはかなり広い室があり、なかなか小綺麗にして畳なども敷いてあり、諸道具も貧しいながら一通りは揃っていた。病んでいるという娘は片隅に寝ていたが、若者がはいって行くと静かに起きて挨拶をした。その様子がなんとも言われぬほどなよなよとして、色は青いが眼の涼しい、美しい小柄な娘であった。

 その晩はいろいろもてなされて楽しく遊んで帰って来たが、それからいかにしてもその娘のことが忘れられぬようになって、毎夜そこへ通うていたが、情が深くなるとともに若者は半病人のごとくになってしまった。朋輩がそれに気がついていろいろ尋ねるので、実は乞食の娘とねんごろになったことを話すと、そんだらどんな女だか見届けた上で、何とでもしてやるからおれをそこへ連れていけというので、若者もぜひなくその友だちを二、三人、岩穴へ連れて行った。親子の者はさも困ったようではあったが、それでも茶や菓子を出してもてなした。一人の友だちはどうもこの家の様子が変なので、ひそかにその菓子を懐に入れて持って来てみたが、それはやはり本当に菓子であったという。 ところがその次とかの晩に行ってみると、娘は若者に向かって身の素性を明かした。私たちは実は人間ではない。今まで明神様の境内に住んでいた狐だが。父親が先年人に殺されてから、親子二人だけでこんな暮らしをしている。これを聞いたらさだめてお前さんもあきれて愛想をつかすであろうと言って泣いた。しかし男はもうその時にはたとえ女が人間でなかろうとも、思い切ることはできないほどになっていたのだが、女のいうには私もこうしていると体が悪くなるばかりだし、お前さんも今にいやな思いをすることがきっとたびたびあろうから、かえって今のうちに別れた方がよいと言って、無理に若者を室から押し出したという。それから後も忘れることが何としてもできぬので、何べんとなく岩のある処へ行ってみるけれども、もうその岩屋の入口がわからなくなってしまった。それでもあの娘も死んだであろうと言って、若者が歎いているということである。この話をした人はこれをつい近年あった事のように言った。その男は毎度遠野の方へ来る兵隊上がりの者だといっていた。」

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posted by Fukutake at 08:24| 日記

母の心にしかめやも

「新版 発心集 上」 鴨長明  浅見和彦・伊東玉美(訳注) 角川文庫

第五(十四)(十五)母の愛 p411〜

 「比叡山に正算(しょうざん)僧都という人がいた。我が身はとても貧しく、西塔の大林という所に住んでいた頃、年の暮れに雪が深く降り積もって、訪ねて来る人もなく、一切の食糧や燃料がなくなってしまった時があった。京に母がいたが、母も生活が厳しいようだったので、かえって知られるとつらくなるので、母には特に聞かせまいと思っていた。ところが母は雪の中で心細い様子を想像したのか、あるいはまた、何かのついでに漏れ聞こえたのか、母親から心のこもった手紙が届いた。都でさえ人の訪れもままならない雪の中で、山深い峰の住まいの大変さなどを、いつもより細やかに心配して、少ないながら物を添えて送って来てくれた。

 思いがけないことで、僧都はとてもありがたく母親の気持ちがしみじみと感じられた。そんな中使いの男が、とてもさむそうで、深い雪をかき分けてやって来たのが気の毒だったので、すぐに火を焚き、男の持って来たものを食べさせようとした。さて食べようとして、男は箸をつけるが、涙をぽろぽろとこぼして食べられない。とても不思議に思って僧都が理由を尋ねる。男は「この贈り物はあだやおろそかに工面されたものではござりません。母上は方々に当たられたけれどもどうにもうまくゆかず、とうとうご自分の髪のしたを切って人にお売りになり、その代金でやっとのことで工面し、お届けした品々なのです。今これを食べようと致しましたが、そのお気持ちの深さ、もったい
なさを思い出すと、私のような身分の低い者ではございますが、あまりに切なくて胸一杯になり、どうしても喉を通らないのです」と言う。これを聞いておろそかに思うはずがあろうか。しばらくの間、僧都も涙を流して泣き続けた。

 すべてにおいて、慈悲の深さで母の思いにまさるものはない。知恵のない鳥獣であっても慈悲を備えている。田舎の人の語りましたことには「雉が子を生んで暖めている時に、野火が起こると、一旦は驚いて逃げるが、なお子を捨てがたいあまりに、立ち上る煙の中に戻って来て、最後に焼け死んでしまう親鳥が多い」という。

 また、鶏が卵を暖める様子は誰もが見ていることだ。卵との間が、自分の毛で隔てらるのを物足りなく思うのか、自分の嘴で胸の毛を引き抜いて、卵を自分の肌に付け、一日中暖める。物を食べにたまたま場を離れても、卵が冷えないうちにと急いで帰ってくる様子は、なまなかな志には見えない。

 また、その昔、故郷あたりで、思いがけず遁世した人がいた、「遁世のきっかけは、私が鷹狩の鷹を好んで飼っていた時、その餌にしようと犬を殺したところ、おなかの大きかった母犬の腹を矢で射切ってしまったところ、そこから胎児が一匹、二匹こぼれ落ちた。走って逃げた母犬はすぐさま戻って来て、その胎児を口にくわえて行こうとして、そのまま倒れて死んだ。それを見て、発心したのだ」と語ったのでした。

 鳥獣のような深い心のない獣でも、子供のためには、これほど我が身に替えて慈しみが深い。ましてや、人間は、親の腹の中に宿ってからひとかどの大人になるまで一瞬一瞬子供を慈しむ親の深い思いは、たとえ命を捨てて孝行しても報い尽くすことができないほどのものである。」

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posted by Fukutake at 08:19| 日記

2021年12月27日

わがプラトン

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房

 『プラトン』と私 p431〜

 「わたしが『プラトン』(全四巻、岩波書店刊)を書きはじめたのは何時ごろかと訊かれることがある。正確なことは日記その他を調べれば、わかると思われるが、今はわたしひとりでは出来ず、人手を煩わすのも面倒なので、何時と答えることはできない。岩波書店で記録を調べてもらったら、一九七五(昭和五十)年五月に、この書物の企画が編集会議で承認されているということであるから、わたしのこの書物もその頃から初動を始めたものと考えることができる。わたしが編集者になっていた「プラトン全集」(全十六巻、同書店刊)は、一九七六年六月刊行の『ソピステス』と『ポリティコス』で、あと『総索引』(一九七八年)を残して、一応完結することになるので、総解説みたいなものをつけ加えるというような案もあったが、それが全集の附録としてではなくて独立の書物として出すことにきまったというわけである。
 
 わたしはその前からプラトンについての総括的なものを書くつもりでいたから、腹案のようなものをいろいろ考え、原稿にも手を染めていたのではないかと思う。そしてそれから約十年、ようやく今その第四巻を公にすることになった。わたし個人としては無論わたしなりの感慨があるわけだが、しかしそれにもまして、この長い年月わたしのこの仕事を直接また間接に助けて来てくれた友人たち、またわたしのこの仕事に対して関心をもち続けて来てくれた読者その他の人たちに対する感謝の念が大であり、切実である。

 最初この書物は一冊のうちにプラトンの生涯、著作、思想の三つをまとめるつもりであったが、いざ書いてみると、とてもそんなことは出来ず、これを上下二巻にまとめることにしたが、その第二巻は哲学だけをおさめるにも足らず、哲学だけもう一巻増やして第三巻とし、その他を「政治理論」の題目の下にまとめ、これを第四巻とした。プラトンの場合、いわゆる倫理学は政治学とは別ではなく、人間学、教育学、歴史理論その他も、ここに包括されることになる。政治の問題はプラトンの若い時からの関心事であり、彼の哲学のうちにあっても主要な地位を占め、歴史的にも大きな影響力をもち、いろいろな批評の対象ともなり、今日的な現実味をもっている。しかしその本当の意味は、単に今日的な関心や批評だけで捉えられるようなものではない。その基本にある哲学の理解が必要なのである。第二巻と第三巻はその理解を助けるために書かれたのである。

 しかしわたしは早急の理解を読者に求めるつもりはない、今日はプラトンが『国家』第六巻で批評している「にせ哲学」の時代なのであって、プラトン哲学の理解がすぐに達成できるような状況にわれわれはいないのである。だからわたしも、この現代との不断の戦いによってのほか、プラトン理解への道を開拓して行くことは出来なかったのである。無論これはむしろプラトン理解からわれわれを遠ざけるやり方であると笑われるかも知れない。しかしわたしはプラトンを現代に近づけるよりも、われわれをプラトンに近づけるという逆のやり方をしようとしているのである。

 それは現代への対立者としてのプラトンこそが、現代のわれわれにとって最も必要な人ではないかと思うからだ。」

初出 『読売新聞』一九八四(五九)年十二月二十日

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「プラトン哲学の理解とは、プラトンの書いたもののできるだけ忠実な理解に尽きる」
posted by Fukutake at 07:57| 日記