「宮崎市定全集 16 近代」 より
黄禍か 白禍か P154〜
「日清戦役において、日本が清朝を破って勝利を得、講和条約において遼東半島の割譲を認めさせたあと、ロシア・フランス・ドイツ三国干渉によって、その権利を放棄した次第は前巻に述べた。ところがちょうどこの前後、当のドイツ皇帝が、黄禍論なる寓意画を工夫し、画家に描かしめて、それをロシア皇帝に贈った。この絵は、東方に炎々ともえたつ焔の中に、龍の背に座した仏陀があり、暗黒の大雲に巻かれながら西方に突進しようとする気配を示し、これに対して防禦の構えをなす一団の西洋婦人が、巌の上に集まり、その先頭には両翼をはやした天使が立って、なにごとかを指示している模様である。これは疑いもなく、黄色人種がやがてヨーロッパに侵入しようとする危険あるを予告し、キリスト教国は団結してこれに対抗せねばならぬという意味を寓しているのであって、先頭に立っている天使は、ドイツ国民を象徴するがごとく思われる。
ドイツ皇帝がなぜこんなことを思いついたかについては、いろいろうがった推測を下すものがあった。かれはロシアの注意をなるべく東方のアジアに向けさせ、動きの取れぬように釘付けにしておいて、その間に自己のヨーロッパにおける地位を強化しようという、遠大な策謀に基づくものだという説もある。これによると、かれが三国干渉の直後、わずか二名の自国宣教師が中国で殺害されたからという理由で、堂々と艦隊を送って青島を占領し、そこに租界を獲得し、山東鉄道敷設権を得たのは、ロシアにも、もっと大胆に中国で行動しなさい、といわんばかりに、みずから模範を示したのだという。はたしてロシアがこの策謀にかかって、日本から返還させたばかりの旅順・大連を租借して日本の恨みを買い、日露戦争によって敗北を喫したので、ドイツ皇帝は手を叩いて喜んだとか。
ところが日本がロシアに戦争で打ち勝つと、これは予想外に大きな衝撃を世界各地に及ぼした。これまでは白人の絶対的優勢のうちに世界の形勢が進行し、アジアもアフリカもアメリカも、ことごとく白人国家の植民地、ないしは半植民地にされてしまった。有色人種はとうてい白人には勝つことができぬと、あきらめてしまっていた有色人種は、ここで一度失った自信をとりもどしたのである。このころから、当時は活動写真とよばれた映画が流行しだし、日露戦争の光景が仕組まれてアジア各地で上演され、植民地土着民の間で大歓迎を受けた。かれらはしだいに民族的な自覚をもつようになり、以前のように征服者に対して卑屈ではなくなってきた。
それにつれて薄気味悪くなったのは、イギリス・フランス・オランダなどの植民国家である。これまでアジアにおいてさんざん横暴を働いていたので、今度はその復讐をうける順番がきはせぬかと恐れるようになった。そしてこういう場合、よく起こりやすいのは加害者のほうがおこす被害妄想である。そこで改めて黄禍論が、前代とはちがった真剣さをもって討議されるようになった。」
政治的理屈
「考える人」 季刊誌 2010年 秋号 No.434 新潮社
万物流転 養老孟司
革命について p131〜
「…歴史では、個々の事象は偶然に起こる。しかしそれが時代に合う、つまり他の偶然の事象とぶつかると、さまさまな思わぬ結果が生じる。事故の解析の結果もそれを支持する。偶然の不幸が重なり合うと、大事件を結果するのである。これは生物の変異が「偶然に」生じ、それが環境と相互作用して進化が起こるという説によく適合する。その種の歴史の書き方をした最近の本を読むと、歴史学もやっと生物学に近づいたなあと感じる。だから進化論がイデオロギー的だったというのは、逆によくわかる。それは歴史問題だったからである。…
日本の軍部に「悪を措定する」必要はない。貧乏人の子弟をあんな組織に放り込んじゃいけなかったのである。
中国の古典文化には感心すべき点が多い。歴史問題が典型である。前王朝の正史を決定するのは、後継の王朝である。どうせ過去の話は不明瞭で、どう決めたって問題が生じる。それなら歴史を決定する最終的な権限は、現政府に属する。それが「政治権力というもの」の一つの内容なのである。だから南京大虐殺三十万人と「政府が決めた」ので、それに反対するのは、要するに反政府である。
ただしその解釈は善悪の因果論に基づいている。だから侵略してきた日本帝国主義に勝利したことが、現在の中韓朝三国政府の正当性である。そういう理屈にならない理屈をいうから私は政治が嫌いで、その点では日本政府はまだマシである。べつにさしたる正当性を主張しないからである。ただし選挙による民意なんてものは、私は必要悪だと思っている。そんな抽象的なもので、具体的な人生を左右されてはたまらない。そう思うからである。でも賛成者は少ないであろう。民主主義という「理念」と、選挙による多数という「実感」が結びついて、小沢になっている。
書いているうちに、なんだか危ない話になってきたなあと思う。だからやっぱり、進化論は生物学ではもめるのである。「進化なんて、そんな済んでしまったことを考えて、どうなりますか」。講義の後で、東大の秀才の大学院生にそう訊かれて、感心したことがある。残念ながら、この人はすでに亡くなった。そういう質問をする人は、歴史なんか考えないはずである。なにしろ「済んでしまったこと」なんだから。私の人生もほぼ済んでしまったなあ。なにをどういおうが、さして変わりはない。なるほど仕事に定年があるわけである。終わりが近づくと、結論はどうでもいいか、まあボチボチ、とこうなるに決まっている。だっていまから張り切ってみても、血圧が上がって、残りの寿命が縮むだけ。そう思えば、危険が多くても、若者に賭けるべきであろう。老いても大丈夫、まだ頑張れる。そう思っている人には悪いが、そりゃ間違いでしょ、というしかない。」-----
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万物流転 養老孟司
革命について p131〜
「…歴史では、個々の事象は偶然に起こる。しかしそれが時代に合う、つまり他の偶然の事象とぶつかると、さまさまな思わぬ結果が生じる。事故の解析の結果もそれを支持する。偶然の不幸が重なり合うと、大事件を結果するのである。これは生物の変異が「偶然に」生じ、それが環境と相互作用して進化が起こるという説によく適合する。その種の歴史の書き方をした最近の本を読むと、歴史学もやっと生物学に近づいたなあと感じる。だから進化論がイデオロギー的だったというのは、逆によくわかる。それは歴史問題だったからである。…
日本の軍部に「悪を措定する」必要はない。貧乏人の子弟をあんな組織に放り込んじゃいけなかったのである。
中国の古典文化には感心すべき点が多い。歴史問題が典型である。前王朝の正史を決定するのは、後継の王朝である。どうせ過去の話は不明瞭で、どう決めたって問題が生じる。それなら歴史を決定する最終的な権限は、現政府に属する。それが「政治権力というもの」の一つの内容なのである。だから南京大虐殺三十万人と「政府が決めた」ので、それに反対するのは、要するに反政府である。
ただしその解釈は善悪の因果論に基づいている。だから侵略してきた日本帝国主義に勝利したことが、現在の中韓朝三国政府の正当性である。そういう理屈にならない理屈をいうから私は政治が嫌いで、その点では日本政府はまだマシである。べつにさしたる正当性を主張しないからである。ただし選挙による民意なんてものは、私は必要悪だと思っている。そんな抽象的なもので、具体的な人生を左右されてはたまらない。そう思うからである。でも賛成者は少ないであろう。民主主義という「理念」と、選挙による多数という「実感」が結びついて、小沢になっている。
書いているうちに、なんだか危ない話になってきたなあと思う。だからやっぱり、進化論は生物学ではもめるのである。「進化なんて、そんな済んでしまったことを考えて、どうなりますか」。講義の後で、東大の秀才の大学院生にそう訊かれて、感心したことがある。残念ながら、この人はすでに亡くなった。そういう質問をする人は、歴史なんか考えないはずである。なにしろ「済んでしまったこと」なんだから。私の人生もほぼ済んでしまったなあ。なにをどういおうが、さして変わりはない。なるほど仕事に定年があるわけである。終わりが近づくと、結論はどうでもいいか、まあボチボチ、とこうなるに決まっている。だっていまから張り切ってみても、血圧が上がって、残りの寿命が縮むだけ。そう思えば、危険が多くても、若者に賭けるべきであろう。老いても大丈夫、まだ頑張れる。そう思っている人には悪いが、そりゃ間違いでしょ、というしかない。」-----
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posted by Fukutake at 09:06| 日記
2021年12月30日
笑う門には
「考える人」季刊誌 2010年 冬号 NO.31
ひとりで生まれても、ひとりで還れない 大井玄 p55〜
「学生を被験者にした実験です。図書館に行って、本を選んで、貸し出しの受付まで持って行かせる。そこで本を借りる書類を書かせているあいだ、最初に学生に対応した図書係が気づかないように他の人と入れ替わる。そうすると、学生はまったく気づかすに、入れ替わった人とやりとりを続けるそうです。
それからこういう実験。被験者の前に坐って、右手の上に Aという女性の顔写真、左手の上にBという女性の顔写真を載せて、被験者に見せるわけです。「あなたが魅力的だと思う女性を選んでください」と言って、どちらかを指してもらう。たとえばAが選ばれるとする。それから二枚の顔写真を被験者の視界から隠して、選ばれなかったBの写真をもう一度見せながら、「どうしてこの女性を選んだんですか? どこが魅力的だったんでしょう」と聞く。すると疑いもせず、「目元が愛らしい」とか「唇のかたちがきれい」とか説明し始めるんだそうです。事実関係からすると完全な作話です。「僕が選んだ人じゃない」と指摘する人はほとんどいない。認知心理学の世界ではこれを選択盲というそうですが、人間の認知能力というものはかなりあやしいものだということがわかります。…
それから日常的な人間関係においても、人間の脳にあるミラー・ニューロン(鏡神経細胞)というものもあります。目の前の人が何か御飯を食べていたとすると、脳のなかではその行動をなぞるように同じことをやっている状態をつくるわけです。人があくびをしているのを見ると、あくびがでるでるのはその一例で、気持ちは伝染します。そのことを敷衍していくと、連れ合いの気持ちをよい方向に持って行くには、自分が気持ちのよい様子をして見せる。たとえば低血圧で朝はしばらく不機嫌な奥さんがいたとする。しかし人間は行動が先なんです。笑うから愉快になり、泣くから悲しくなる。低血圧の妻の夫が、毎朝、妻の顔を最初に見るときに、ニコッとするようにしてみたそうです。最初はどうしてニコッとされたのかわからなかった妻も、毎日ニコッとされ続けていくうちに、自分からも自然にニコッとする条件づけがされた。相手にとって楽しい存在である、ということを無意識のうちに植えつけていくことが、人間関係から不安をとりのぞく大きな契機にもなっていくということですね。」
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ひとりで生まれても、ひとりで還れない 大井玄 p55〜
「学生を被験者にした実験です。図書館に行って、本を選んで、貸し出しの受付まで持って行かせる。そこで本を借りる書類を書かせているあいだ、最初に学生に対応した図書係が気づかないように他の人と入れ替わる。そうすると、学生はまったく気づかすに、入れ替わった人とやりとりを続けるそうです。
それからこういう実験。被験者の前に坐って、右手の上に Aという女性の顔写真、左手の上にBという女性の顔写真を載せて、被験者に見せるわけです。「あなたが魅力的だと思う女性を選んでください」と言って、どちらかを指してもらう。たとえばAが選ばれるとする。それから二枚の顔写真を被験者の視界から隠して、選ばれなかったBの写真をもう一度見せながら、「どうしてこの女性を選んだんですか? どこが魅力的だったんでしょう」と聞く。すると疑いもせず、「目元が愛らしい」とか「唇のかたちがきれい」とか説明し始めるんだそうです。事実関係からすると完全な作話です。「僕が選んだ人じゃない」と指摘する人はほとんどいない。認知心理学の世界ではこれを選択盲というそうですが、人間の認知能力というものはかなりあやしいものだということがわかります。…
それから日常的な人間関係においても、人間の脳にあるミラー・ニューロン(鏡神経細胞)というものもあります。目の前の人が何か御飯を食べていたとすると、脳のなかではその行動をなぞるように同じことをやっている状態をつくるわけです。人があくびをしているのを見ると、あくびがでるでるのはその一例で、気持ちは伝染します。そのことを敷衍していくと、連れ合いの気持ちをよい方向に持って行くには、自分が気持ちのよい様子をして見せる。たとえば低血圧で朝はしばらく不機嫌な奥さんがいたとする。しかし人間は行動が先なんです。笑うから愉快になり、泣くから悲しくなる。低血圧の妻の夫が、毎朝、妻の顔を最初に見るときに、ニコッとするようにしてみたそうです。最初はどうしてニコッとされたのかわからなかった妻も、毎日ニコッとされ続けていくうちに、自分からも自然にニコッとする条件づけがされた。相手にとって楽しい存在である、ということを無意識のうちに植えつけていくことが、人間関係から不安をとりのぞく大きな契機にもなっていくということですね。」
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posted by Fukutake at 07:54| 日記