「宮本常一著作集 12 村の崩壊」 未来社 暮らしの周辺
消えた野の声 p303〜
「戦争がすんで二二年になる。敗戦は日本人にとって、実に大きな生活革命をもたらした。
最初におどろいたのはヘリコプターでDDTをまいて、東京で蚊帳をつらなくても眠れるようになったことであった。蚊やハエをいなくする運動が全国的に起こって来るのは昭和三〇年ころからであるが、過去のわれわれの生活の中では考えられない出来事であった。だから、占領軍のヘリコプターがDDTをまいても、日本人自身が同様な方法で蚊、ハエをいなくするような運動を起こすまで、しばらく間があったのである。
だが、DDTがまかれたことによっても一つの大きな変化が起った。セミが鳴かなくなったのがそれである。DDTにかぎらず、農薬の発達から、たんぼのカエルを殺した。土ガエルや殿様ガエルは農村の大事な風物の一つであった。ホタルも飛ばなくなったし、小川のドジョウやメダカも姿を消した。気がつかないうちに、子供たちが野に出てそういう小動物をとったり、楽しんだりすることは、ほとんどなくなってしまった。お盆のころになっても、赤トンボは飛ばなくなった。私にとって、この変化の大きさは、息のつまるほどのおどろきであった。野に生きる者は、そうした鳥や虫や小魚などにとりかこまれていることによって、ゆたかさをおぼえたのである。田畑で働く者にとって、その働く場が、どんなに単調で、つまらないものになっていくのだろうかということが、私にとっては一ばん大きな関心事であった。
私の子供のころには、まだ仕事をしながら歌を歌っている人は多かった。よい声で、草とり歌や草刈歌を歌っているのを聞いたし、木挽の歌を聞いたこともあったが、戦争を境にして、働く人びとのくちびるから歌が消えたばかりでなく、野の声も消えたのである。そして、民謡が仕事をするときに歌うものであったことを知っているいる者は、もう何ほどもいなくなっている。
仕事をしながら歌など歌えるものではないであろう、という疑問を持つ者が多い。それほど野から野の声を失ってしまったら、百姓として楽しみながら働くことができるであろうか。田畑の仕事を、ただ、だまって働くだけのものにしたならば、これほど骨が折れて、疲れる仕事はないのである。悪くすると、百姓たちは野の仕事の辛さだけが気になりはじめて、百姓仕事をいやがりはじめる者が次第にふえて来るのではないかと思ったが、そういう危惧は、意外なほど早く現実になった。それは、都会の方が農村の何倍もにぎやかになって来たからであろう。
しかし、私が危惧したほど野がさびしくはならなかった。トランジスタラジオができたおかげで、それを木の枝などにかけて、聞きながら仕事している人もふえてきた。ただ、ラジオの音楽と仕事とは、リズムの上でかみあわない。だから、音をたてることが仕事をする上のはずみにならなくなっている。いずれにしても、野にみちた自然の声の消えたことが、昔風に働いて来た人たちの中にあった明るさやはずみを消してしまったことは大きい。と同時に、従来の働き方ではなくて、新しい型の働きをそこで生み出すことによって農業は生きのびねばならなくなった。カエルの声よりもトラクターのうなりの方が、農村を農村として維持してゆくためには、もっと大切なことになって来た。
しかし、野の音はそれだけでいいのであろうか。もっと親しみ深いものもほしいのである。」
初出 『朝日新聞』1967年12月16日
----
野の声
2021年11月29日
ハエはいなくなったが…
posted by Fukutake at 13:10| 日記
魯迅の仙台時代
「朝花夕拾」 魯迅 松枝茂夫訳 岩波文庫
藤野先生 p88
「… たしか土曜日の日、彼(藤野先生)は、助手に命じて私を呼ばせた。研究室へ行ってみると、彼は、人骨やら多くの単独の頭蓋骨やらー 当時、彼は頭蓋骨の研究をしていて、のちに本校(仙台の医学専門学校)の雑誌に論文が一篇発表されたー の\あいだに坐っていた。
「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。
「すこしできます」
「持ってきてみせなさい」
私は、筆記したノートを差し出した。彼は、受け取って、一二日してからかえしてくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは、彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終わるまで、ずっとつづけられた。
遺憾ながら、当時、私は一向に不勉強であり、時にはわがままでさえあった。今でもおぼえているが、あるとき、藤野先生が私を研究室へ呼び寄せ、私のノートから一つの図をひろげて見せた。それは下膊の血管であった。彼はそれを指さしながら、おだやかに私に言ったー
「ほら、君はこの血管を少し変えたねー むろん、こうすれば比較的形がよくなるのは事実だ。だが、解剖図は美術ではない。実物がどうあるのかということは、われわれは勝手に変えてはならんのだ。いまは僕が直してあげたから、今後、君は黒板に書いてある通りに書きたまえ」
だが私は、内心不満であった。口では承諾したが、心ではこう思ったー
「図はやはり僕の方がうまく書けています。実際の状態なら、むろん、頭のなかに記憶していますよ」
学年試験が終わってから、私は東京へ行って一夏遊んだ。秋のはじめに、また学校に戻ってみると、すでに成績が発表になっていた。百人余りの同級生のなかで、私はまん中どころで、落第はせずに済んだ。こんどは、藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであった。
解剖実習がはじまってたしか一週間目ごろ、彼はまた私を呼んで、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調でこう言ったー
「僕は、中国人は霊魂を敬うと聞いていたので、君が屍体の解剖をいやがりはしないかと思って、随分心配したよ。まずまず安心さ、そんなことがなくて」
しかし彼は、たまに私を困らせることあった。彼は、中国の女は纏足をしているそうだが、くわしいことがわからない、と言って、どんな風に纏足をするのか、足の骨はどんな畸形になるか、などと私に質し、それから嘆息して言った。「どうしても一度見ないとわからないね、いったい、どんな風になるものか」
ーーーー
藤野先生 p88
「… たしか土曜日の日、彼(藤野先生)は、助手に命じて私を呼ばせた。研究室へ行ってみると、彼は、人骨やら多くの単独の頭蓋骨やらー 当時、彼は頭蓋骨の研究をしていて、のちに本校(仙台の医学専門学校)の雑誌に論文が一篇発表されたー の\あいだに坐っていた。
「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。
「すこしできます」
「持ってきてみせなさい」
私は、筆記したノートを差し出した。彼は、受け取って、一二日してからかえしてくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは、彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終わるまで、ずっとつづけられた。
遺憾ながら、当時、私は一向に不勉強であり、時にはわがままでさえあった。今でもおぼえているが、あるとき、藤野先生が私を研究室へ呼び寄せ、私のノートから一つの図をひろげて見せた。それは下膊の血管であった。彼はそれを指さしながら、おだやかに私に言ったー
「ほら、君はこの血管を少し変えたねー むろん、こうすれば比較的形がよくなるのは事実だ。だが、解剖図は美術ではない。実物がどうあるのかということは、われわれは勝手に変えてはならんのだ。いまは僕が直してあげたから、今後、君は黒板に書いてある通りに書きたまえ」
だが私は、内心不満であった。口では承諾したが、心ではこう思ったー
「図はやはり僕の方がうまく書けています。実際の状態なら、むろん、頭のなかに記憶していますよ」
学年試験が終わってから、私は東京へ行って一夏遊んだ。秋のはじめに、また学校に戻ってみると、すでに成績が発表になっていた。百人余りの同級生のなかで、私はまん中どころで、落第はせずに済んだ。こんどは、藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであった。
解剖実習がはじまってたしか一週間目ごろ、彼はまた私を呼んで、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調でこう言ったー
「僕は、中国人は霊魂を敬うと聞いていたので、君が屍体の解剖をいやがりはしないかと思って、随分心配したよ。まずまず安心さ、そんなことがなくて」
しかし彼は、たまに私を困らせることあった。彼は、中国の女は纏足をしているそうだが、くわしいことがわからない、と言って、どんな風に纏足をするのか、足の骨はどんな畸形になるか、などと私に質し、それから嘆息して言った。「どうしても一度見ないとわからないね、いったい、どんな風になるものか」
ーーーー
posted by Fukutake at 13:07| 日記