「中国の思想 第11巻 左伝」 徳間書房
三舎を避く p111〜
「一行は楚国についた。
楚の成王は盛大な宴を催して、一行をもてなした。その席上のことである。成王は重耳に、「あなたが本国にお帰りになったあかつきには、返礼に何をくださるかな」と、たずねた。
「美女とか玉とか帛のたぐいは、いくらでもお持ちでしょう。さりとて、鳥の羽、獣の毛皮、牙などは、みなお国の特産。わが国のほうがお余りを頂戴しているくらいです。さて、何にしたものか」
「それはそうでしょうが、わたしとしては何か一つくらい頂戴したい」
「では、こうしましょう。もし、あなたのお力で本国に帰ることができたとします。そして将来わが晋と貴国とが、軍勢をととのえて中原の地で相まみえるようなことになったとき、わたしは九十里だけわが国の軍勢を後退させましょう。これでご納得いただけるかと思います。
もしこれで納得がいかないとおっしゃるのでしたら、やむをえません。はばかりながらこのわたくし、弓をとってお相手つかまりましょう。」
そばできいていた楚の令尹子玉は、これこそ未来の強敵と思い、今のうちに重耳を暗殺するように成王に申し出た。しかし、成王は、
「晋の公子は大きな理想を抱きながらも、足取りは着実だ。派手にふるまっている一面、けっして礼にもとるようなことがない。従者たちにしてもそうだ。慎み深く仕えていながら、窮屈そうではない。誠実に努力をつみ重ねている。それに引きかえ、今の晋侯(恵公、名は夷吾、重耳の異母兄弟)はどうだ。心を許せる臣下に恵まれず、国内はもちろん国外からも怨みを買っている。晋は姫姓の国、唐叔の後裔で、どこの国よりも長く栄えると聞き及んでいる。重耳こそ、晋の国力を盛り返す人物にちがいあるまい。天が復興させようとしているものを、だれが押しとどめられよう。これに逆らえば、必ず天罰がくだろう」
こう言って、重耳を秦国に送り届けた。」
<九十里…> 原文は「君を辟(さ)けること三舎(舎:距離の単位)」当時、軍隊の行程は一日三十里(12km)で宿営する慣わしであった。三舎とは九十里(36km)である。「三舎を避ける」という語源。
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信じること
「棚から哲学」 土屋賢二 文春文庫 2002年
デタラメな信じ方 p164〜
「わたしのことばは信じてもらえない傾向があるが、信じられることもある。不幸なことに、信じてほしくないときにかぎって、信じられてしまうのだ。たとえば「わたしは人に尊敬されたことがありません」というと、まず文字通りに信じられてしまう。むろん、わたしだって人から尊敬されたことはある。以前、「アンパンマンと友達だ」といって幼稚園児に尊敬されたことがある。
信じてほしくないつもりでいったことが信じられてしまうのは困ったものである。どうしてこうなるのか、よく分からないが、わたしに対する悪い先入観が根底にあるような気がする。たとえばわたしが「ピアノが下手です」というと、わたしの演奏を聞いたことがない人は、謙遜だろうと思って、わたしのことばを信じようとしないが、一度でも演奏を聞いたことがある人は、先入観をもっているため、例外なく、わたしのことばをそのまま信じてしまうのだ。
信じる・信じないを人はどうやって決めているのだろうか。わたしの例からも分かるように、人々は合理的な根拠に基づいて信じているわけではない。科学よりも占いを信じ、医学より民間療法を信じる人がいるし、宗教家の中には、「何の根拠もないから信じる」と考えている人さえいる。
だが、科学的な信念なら合理的といえるだろうか。人は納得できることしか信じないが、その「納得」そのものがいいかげんである。たとえば、地球の裏側にいる人が落下しないという事実は、小学生でも納得し、信じているが、考えてみれば、どうして納得できるのか不可解である。裏側にいる人が、磁石もないのに、なぜ地球にくっついていられるのか。かりに磁石で引きつけているのだとしても、接着剤を使うわけでもないのになぜ磁石はくっつくのか。かりに接着剤でくっついているとしても、接着剤も物体だ。物体と物体の間に物体を入れただけでどうしてくっつくのか。
ニュートンの万有引力の法則によって説明できる、といわれるかもしれないが、ニュートンの説明は結局のところ、「磁石や接着剤がなくても、物体は引っ張り合う。りんごも天体もみなそうだ」と主張しているだけだ。引力という現象そのものが納得できないのに、それが何の原因もなくあらゆる所で成り立っているといわれても、ますます納得できなくなるだけではなかろうか。一匹のゴキブリが怖いなら、ゴキブリを全部集めてもよけい怖くなるだけだ。
これだけ信じられない材料がそろっているのに、人々はなぜ科学を簡単に信じているのか。ニュートンを信じられるなら、わたしのことばがどうしてしんじられないのか。人間の信じ方はデタラメだ。
それどころか、人間は、信じているくせに「信じられない」ということがあるから、ますます信用できない。宝くじが当たったなど、都合のよすぎることが起こったとき、われわれは「とても信じられない」と驚き、「夢ではないか」と疑うが、むろん、内心では信じている。とても信じられないから賞金を受け取らない、という人はいないのだ。
もしかしたら、「自分は宝くじを当てるような何十万人に一人という特別な人間ではない」と謙虚に考えているのかもしれないが、そもそも何十万人に一人になってもおかしくないと思うから宝くじを買っているのだし、第一、宝くじが外れ続けたら、なぜ自分がこんな不当な扱いを受けなくてはならないのか、と憤慨するに違いないのだ。
むしろ、「信じられない」といっても、「常識では信じられないほど自分は特別だ」ということを強調したいだけではなかろうか。これはちょうど、他人の愚かな行動を見て「信じられない行動だ」というのと同じである。最初から他人は愚かだと信じているのだが、「常識では考えられないほど愚かだ」と強調したいだけなのだ。
だから「信じられない」とだれがいっても信じてはならない。」
(初出 「週刊文春」)
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デタラメな信じ方 p164〜
「わたしのことばは信じてもらえない傾向があるが、信じられることもある。不幸なことに、信じてほしくないときにかぎって、信じられてしまうのだ。たとえば「わたしは人に尊敬されたことがありません」というと、まず文字通りに信じられてしまう。むろん、わたしだって人から尊敬されたことはある。以前、「アンパンマンと友達だ」といって幼稚園児に尊敬されたことがある。
信じてほしくないつもりでいったことが信じられてしまうのは困ったものである。どうしてこうなるのか、よく分からないが、わたしに対する悪い先入観が根底にあるような気がする。たとえばわたしが「ピアノが下手です」というと、わたしの演奏を聞いたことがない人は、謙遜だろうと思って、わたしのことばを信じようとしないが、一度でも演奏を聞いたことがある人は、先入観をもっているため、例外なく、わたしのことばをそのまま信じてしまうのだ。
信じる・信じないを人はどうやって決めているのだろうか。わたしの例からも分かるように、人々は合理的な根拠に基づいて信じているわけではない。科学よりも占いを信じ、医学より民間療法を信じる人がいるし、宗教家の中には、「何の根拠もないから信じる」と考えている人さえいる。
だが、科学的な信念なら合理的といえるだろうか。人は納得できることしか信じないが、その「納得」そのものがいいかげんである。たとえば、地球の裏側にいる人が落下しないという事実は、小学生でも納得し、信じているが、考えてみれば、どうして納得できるのか不可解である。裏側にいる人が、磁石もないのに、なぜ地球にくっついていられるのか。かりに磁石で引きつけているのだとしても、接着剤を使うわけでもないのになぜ磁石はくっつくのか。かりに接着剤でくっついているとしても、接着剤も物体だ。物体と物体の間に物体を入れただけでどうしてくっつくのか。
ニュートンの万有引力の法則によって説明できる、といわれるかもしれないが、ニュートンの説明は結局のところ、「磁石や接着剤がなくても、物体は引っ張り合う。りんごも天体もみなそうだ」と主張しているだけだ。引力という現象そのものが納得できないのに、それが何の原因もなくあらゆる所で成り立っているといわれても、ますます納得できなくなるだけではなかろうか。一匹のゴキブリが怖いなら、ゴキブリを全部集めてもよけい怖くなるだけだ。
これだけ信じられない材料がそろっているのに、人々はなぜ科学を簡単に信じているのか。ニュートンを信じられるなら、わたしのことばがどうしてしんじられないのか。人間の信じ方はデタラメだ。
それどころか、人間は、信じているくせに「信じられない」ということがあるから、ますます信用できない。宝くじが当たったなど、都合のよすぎることが起こったとき、われわれは「とても信じられない」と驚き、「夢ではないか」と疑うが、むろん、内心では信じている。とても信じられないから賞金を受け取らない、という人はいないのだ。
もしかしたら、「自分は宝くじを当てるような何十万人に一人という特別な人間ではない」と謙虚に考えているのかもしれないが、そもそも何十万人に一人になってもおかしくないと思うから宝くじを買っているのだし、第一、宝くじが外れ続けたら、なぜ自分がこんな不当な扱いを受けなくてはならないのか、と憤慨するに違いないのだ。
むしろ、「信じられない」といっても、「常識では信じられないほど自分は特別だ」ということを強調したいだけではなかろうか。これはちょうど、他人の愚かな行動を見て「信じられない行動だ」というのと同じである。最初から他人は愚かだと信じているのだが、「常識では考えられないほど愚かだ」と強調したいだけなのだ。
だから「信じられない」とだれがいっても信じてはならない。」
(初出 「週刊文春」)
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posted by Fukutake at 12:55| 日記