2021年11月15日

醤油瓶とトルストイ

「井伏鱒二全集 第十二巻」 筑摩書房 昭和四十年

コンプラ醤油瓶 p99〜

 「友人數名と長崎に行くと、この土地の天野さんといふ人が私たちにコンプラ醬油瓶を一箇づつくれた。伊萬里系統の正味三合入の徳利である。昔、長崎のコンパニー會社がオランダと貿易してゐたことの輸出品の残物で、立山役所の趾を掘つてゐたら穴蔵から二百箇ばかり見つかつた。そのうちの一部だといふことであつた。ごく雑な出来であるが、徳富蘆花の紀行文によると、この手の徳利をトルストイが書齋に置いて一輪差にしてゐたさうだ。
 トルストイは、このコンプラ醬油瓶をどこで手に入れたらうか。モスコーかペテルブルグの古道具屋で見つけ、異國情緒を感じて買つて歸つたのだらうか。トルストイにそんな趣味があつたかどうか。どうしてこんな雑な徳利を座右に置いてゐたのだらうか。

 私はかう思つた。トルストイは、この徳利をゴンチャロフから貰つたのかもわからない。どうもさうらしい。ゴンチャロフはロシア皇帝の使節プチャーチン提督の秘書として、嘉永二年に長崎に来航し、川路柳虹(りゅうこう)の曾祖父である川路聖謨(かわじとしあきら)と會談を取りかわしてゐる。歸航のとき船中必要な調味料として、コンプラ醬油を一ダースくらゐ川路から貰つたとしても不自然ではない。するとゴンチャロフはその空瓶をモスコーに持ち歸つて、ロシアの文人仲間にくれてやつたとも思われないこともない。ゴンチャロフが日本渡航を決意した所以は、東洋のむせるような異國情緒を味はいたいためであつたと云われるてゐる。雑なつくりの日本の徳利にも情緒を感じたらう。彼が長崎にきたのは三十歳ぐらゐのときである。そのころトルストイは二十五六歳くらゐであつたろう。
 私は天野さんにもたつた醬油瓶を、當座ほんのしばらく机の上に置いていたが、トルストイをまねるのは氣がさすので押入れにしまつた。釉藥もお粗末で、轆轤を亂暴にまわしたらしいあとが目立つてゐる。輸出品となると、昔の人もやはり粗製濫造したのだらうか。」

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幕末 長崎  ゴンチャロフ  トルストイ  井伏鱒二
posted by Fukutake at 07:53| 日記

悪政

「三略」 眞鍋呉夫(訳) 中公文庫 2004年

上略19 p51〜

 「『軍讖*』は、不埒な為政者、高官、役人、貴族などについて、それぞれ次のように戒めている。

「為政者が悪政を行えば、人民は疲弊する。税金が重く、たびたび取り立てられ、また刑罰が厳しすぎれば、人民は道理を失ってしまう。これを亡国と言うのである」

「大臣をはじめとする高官のなかには、みかけは清廉でも実際は貪欲で、不当な名声をむさぼっているものがいる。また、公費をくすねて私恩を売り、上司や部下を煙に巻く者もいる。外見を飾りたたて正義面をして、まんまと高い官位を手に入れる者もいるが、世に盗の端というのはこれらの高官どものことを言うのである。」

「夥しい役人のなかには、お互いに徒党を組んで、自分に親しい者だけのあと押しをする者がいる。また、悪人を引き立てて、善人をしりぞける者もいる。公私を混同して、同僚の足を引っぱる者もいるが、世に乱の源というのはこれらの役人どものことを言うのである。」

「貴族たちのなかには、お互いに馴れあって言いたい放題、位階もないのに尊大で、やたらに威張りくさっている者がいる。また雑草の蔓のようにはびこり、悪徳を重ねて私恩を売りつけ、揚句のはてには君主の位を奪いかねないような者もいる。人民をしいたげ、愚弄し、そのために国内が混乱しても、家臣たちが主の横暴をひたかくしにしてくれるのをいいことに、のうのうと安逸をむさぼっているような者もいるが、世に乱の根というのはこういう貴族どものことを言うのである」
軍讖*(ぐんしん):兵法の書、軍の勝敗を予言的に述べたもの。

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隣国の現状そのもの。いずれ乱が起こり、滅亡しよう。

posted by Fukutake at 07:50| 日記