2021年11月09日

にこにこ顔

「考える人」季刊誌 2010年 冬号 NO.31

ニコニコしていればいい 養老孟司 p43〜

 「私自身がニコニコ顔で思い出すのは、少し前に亡くなられた河合隼雄さんです。いつもニコニコして駄洒落ばかりおっしゃっていた。人の意見を訂正せずに聞いていらして、最後は文化庁長官で激務をこなされていてね。河合さんと何人かで勉強会を定期的に開いていたことがあります。会議室なんかを借りて、月に一回くらいだったか集まっていました。勉強のテーマなんてそっちのけで、ずっと駄洒落や笑い話でした。懐かしいなあ。河合さんとの思い出はすべて笑いに満ちています。河合さんのような境地に達するのはなかなか難しいでしょうけど、あそこまでいかなくても、とりあえずニコニコしていればいいんだと思います。
 何度も出かけているブータンでも、すばらしい笑顔の年寄りに会いました。残念ながらこの方もなくなってしまわれたのですが、ロポン・ペマラというお坊さん。首都のティンプーから車で十四時間くらいかかる山奥に住んでいらした。お寺そのものも、質素なんだけど、清潔で手入れが行き届いていてね。お金がかかっているわけじゃ決してないのに、居心地がいい。ご本人も、非常に華奢な方なのに、存在感があって、一緒にいると言葉が要らなくなる。見てるだけで落ち着くんです。柔らかい笑顔というのかな。それほどの顔を持つお坊さんって、最近の日本にいますかね。
 ブータンでは、五歳くらいから僧房に入って修行をするんだけど、そのロポン・ペマラのお寺の少年僧は、とにかくかわいらしい。道で出くわすと、少しはにかみながら、挨拶をして、こちらに道を譲って待っている。目を好奇心できらきらさせながら待っているんです。こちらもありがとうと微笑みながら声をかけて、先に行かせてもらう。こんな中で毎日過ごしていたら、不機嫌になんてなりようがないでしょうね。そのときにふと思ったんです。少年僧の顔が年月を経て、ロポン・ペマラのような顔になるんだな。好奇心と輝きの顔が、柔和な顔になるんだなあ。ああ、これこそが生きるっていうことなんだろうかってね。そうやって顔が変わっていくことこそが、生きることなんじゃないかと、思ったんですよ。」

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posted by Fukutake at 09:39| 日記

二二六事件

「利用とあこがれ」三島由紀夫 「三島由紀夫全集31」
  新潮社 1975年

p9〜
 「最近讀んだ本で、末松太平氏の「私の昭和史」ほど、深い感銘を與へられた本はない。軍人の書いた文章と思へぬほど、見事な洗練された文章であり、話者の「私」の位置決定も正確なら、淡々たる叙述のうちに哀切な抒情がにじみ出てゐるのも心憎く、立派な一編の文学である。殊に全篇を讀み来たつて、エピロオグの「大岸頼好の死」の章にいたつたときの、パセティックで、しかも残酷な印象は比類がない。

 これは二・二六事件の關係者で、おそらく唯一人の生き残りの、かつての「青年将校」が、冷静に當時の自分の周圍を描き出したいはば回想録である。しかしこんな新鮮な回想録といふものもまた珍しい。
 著者が自己の純潔な心情を信じてゐるのは、讀者もそのまま信じてよいわけであるが、過去のこれほどの冷静周到な分析と、かつて一青年の心に燃えた純潔な炎とは、讀後、どうしても相矛盾する感を否めない。著者自身もそれを承知してゐて、とりわけ美しい冒頭の數章の中で、「青年将校運動といはれたものも、かういつた左翼の地下運動まがひの時代が、むしろ内容として充實してゐて、これからあとのブーム時代は、革新といふ意味からいへば、むしろ後退した」と述べている。

 さて、これからは、今日の問題である。
 この本の中で、青年将校たちが上官からちやほやされ、こはもてするのは、もちろん利用價値があつたからであるが、結局は、軍隊といふ特殊な一社會集團において、その集團のモラリティー(士道)を體現するものと目されたからである。
 この社會集團には、厳しい規律もあり、階級制度もあり、立身出世主義も功利主義もあるが、それらはいづれもこの集團の本質的特徴をなすものではなく、最後にのこる本質的特徴としてはモラリティー(士道)しかないことを、誰しもみとめざるをえず、しかもその行動的倫理の實現の可能性は、何をしでかすかわからない危険な「青年将校」の中にしかないことを、暗黙の裡にみとめ合つてゐたからである。軍上層部の心理としては、かれらを利用することと、かれらにあこがれることとは、ほとんど同義語であつたと考へてよい。

 しかし、問題はただ、昔の軍隊にとどまらず、社會が、その立脚すべき眞のモラリティーの保持者を求めて動揺するときには、(そして、宗教も何らその要求にこたへないときには、)すべては似たやうなメカニズムにおいて動く。安保闘争のとき、全學連主流派に對して、田中清玄氏が資金を提供したといふ興味あるニュースは、このことを暗示してゐる。
 社會の上層部の道徳的自己疎外(あへて腐敗とは云はない)は、隠密に、何ものかを利用しようとし、何ものかにあこがれてゐる。あとはただ、誰がその場所に立つてゐるか、といふだけのことである。」
(<初出>中央公論・昭和三十八年五月)

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行動にうつる時までの思想が純粋でも、そのあとはいろんなしがらみで押し流されていくようだ。

posted by Fukutake at 09:35| 日記