「鞄に本だけつめこんで」 群ようこ 新潮文庫
文章の面白さ
p13「(私の父親は)突発的に何をしでかすかわからない、歩く人間爆弾であった。恐怖の引越し魔で
「一週間後に引越し!」
と晩ごはんを食べている時に皆に言いわたす。私と弟は、
「ひえーっ」
と、おったまげるのだが、母親ハルエはもう何をきいても全く動ぜず、しらんぷりをしてタクアンをポリポリかじったりしていた。私と弟はあわてて身の回りのものを段ボール箱につめて、あれよあれよという間に遊牧民族の如く去っていくのである。」
p14「タケシ(父親)の料理は、
「別々に喰えるものが一緒に喰えないわけはない」
というポリシーに貫かれていた。ある夏の日にタケシは“スイカミルクかけごはん”を作り、私たちに食べろとせまった。おまけに上にはサトウが山のようにかけてあった。むりやりそれを食べさせられた私たち及び料理人タケシはその夜からまる二日、枕を並べて腹下しで討死したのであった。」
p16「…今度は別の手を使いはじめた。テレビの競馬中継である。
「単勝というのは一着の馬だけを選ぶの、連勝複式というのは、一着と二着の馬をあてるの、わかったか。この枠の番号であてるんだぞ」
と言い、即席馬券を作り、私と弟にくれるのである。これはコイコイよりも、もっと興奮した。ゲートが開いて馬が一斉にスタートすると、テレビの前で親三人手作りの馬券を握りして、画面にむかってにじり寄っていくのである。タケシは中央競馬会であるからほとんど損することがなく、このへんもひどくキタナイのである。」
p17「夫婦仲は悪いわ、金はないわ、こんな家へ帰りたくなるほうがおかしい。私は授業が終わっても下校時間ギリギリまで図書館で本を読み、帰りがけに近所の小さな本屋で文庫本を買って親と顔をあわさないようにして自分の部屋で読みふけった。自分より不幸な境遇の人が登場するとかわいそうに思いながらも、
「私はこれほど不幸ではない」と秘かに安心した。」
p18「どこの親も、娘がこのくらいの年齢になると家事をしこうもうとするようで、うちも家政科を首席で卒業した我が母がそれにトライしたが、四角い部屋を不等辺三角形に掃き、魚を四枚におろしたりする前代未聞の必殺技をもつ私にホトホトあいそをつかし、そのまま無視されてしまった。」
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何でもない日常をタメ口で茶化すワザがすごい!
日本の庭
「新編 日本の面影」 ラフカディオ・ハーン 池田雅之=訳 角川ソフィア文庫
日本の庭にて(2) p217〜
「もうひとつ、特に忘れてはならない大事なことは、日本庭園の美を理解するためには、石の美しさを理解しなければならないということだ。少なくとも、理解しようと努めなければならない。石といっても、人の手で切り出されたものではなく、自然の営みで生まれた自然石のことである。石にもそれぞれに個性があり、石によって色調と明暗が異なることを、十分に感じ取れるようにならなくてはいけない。そうでないと、日本庭園の美しさの真髄が心に迫ってくることはないだろう。
しかも、外国人であるなら、たとえその人が審美眼を持ち合わせていようとも、石に対しての感覚だけは学習し、磨いておく必要がある。日本人の中には、生まれながらにしてその感覚が宿っている。自然を、少なくともその目に見える形のままに理解することにかけては、日本人は私たち西洋人よりもはるかに優れている民族なのだ。だが、西洋人が石の美を本当に理解できるようになるためには、日本人が石をどう選び、そのように使っているかに、長い年月をかけて精通してゆくしかない。
だが、もしも日本の内地に暮らしているなら、そのような訓練はどこでも身近に実践することができる。表通りを歩けば、石への美意識を養う課題を避けて通る方が、むしろ難しいぐらいだ。寺への参道で、路傍で、鎮守の森の前で、墓地だけでなく公園や遊園地のいたる所で、大きくて形の不揃いな平べったい自然石を目にすることであろう。たいていは、水の流れに磨耗してできた天然の形のままに、川床から採取してきており、そのうえ文字ころ彫られているが、それ以上の加工はしていないのが普通だ。これらの石は、奉納碑、記念碑、墓石として据えられたもので、神仏の像を浮き彫りにした、普通の切り出しの石柱や墓石よりも、ずっと高価である。
さらに、神社や大きな屋敷の前にはほとんどと言っていいほど、激流に洗われて丸みを帯びた、大きくていびつな御影石や固い自然石が、上面に円形の窪みをうがたれて手水鉢になっているのを見かけることであろう。そういう石の使い方は、どんなに貧しい村であろうと当たり前に見られる例である。もし天性の芸術的感覚を持ち合わせているなら、遅かれ早かれ、こうして自然造られたものの方が、機械で加工したものよりどれだけ美しいか、かならずや気づくに違いない。」
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今やハーンに日本の美を教えられる時代。
日本の庭にて(2) p217〜
「もうひとつ、特に忘れてはならない大事なことは、日本庭園の美を理解するためには、石の美しさを理解しなければならないということだ。少なくとも、理解しようと努めなければならない。石といっても、人の手で切り出されたものではなく、自然の営みで生まれた自然石のことである。石にもそれぞれに個性があり、石によって色調と明暗が異なることを、十分に感じ取れるようにならなくてはいけない。そうでないと、日本庭園の美しさの真髄が心に迫ってくることはないだろう。
しかも、外国人であるなら、たとえその人が審美眼を持ち合わせていようとも、石に対しての感覚だけは学習し、磨いておく必要がある。日本人の中には、生まれながらにしてその感覚が宿っている。自然を、少なくともその目に見える形のままに理解することにかけては、日本人は私たち西洋人よりもはるかに優れている民族なのだ。だが、西洋人が石の美を本当に理解できるようになるためには、日本人が石をどう選び、そのように使っているかに、長い年月をかけて精通してゆくしかない。
だが、もしも日本の内地に暮らしているなら、そのような訓練はどこでも身近に実践することができる。表通りを歩けば、石への美意識を養う課題を避けて通る方が、むしろ難しいぐらいだ。寺への参道で、路傍で、鎮守の森の前で、墓地だけでなく公園や遊園地のいたる所で、大きくて形の不揃いな平べったい自然石を目にすることであろう。たいていは、水の流れに磨耗してできた天然の形のままに、川床から採取してきており、そのうえ文字ころ彫られているが、それ以上の加工はしていないのが普通だ。これらの石は、奉納碑、記念碑、墓石として据えられたもので、神仏の像を浮き彫りにした、普通の切り出しの石柱や墓石よりも、ずっと高価である。
さらに、神社や大きな屋敷の前にはほとんどと言っていいほど、激流に洗われて丸みを帯びた、大きくていびつな御影石や固い自然石が、上面に円形の窪みをうがたれて手水鉢になっているのを見かけることであろう。そういう石の使い方は、どんなに貧しい村であろうと当たり前に見られる例である。もし天性の芸術的感覚を持ち合わせているなら、遅かれ早かれ、こうして自然造られたものの方が、機械で加工したものよりどれだけ美しいか、かならずや気づくに違いない。」
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今やハーンに日本の美を教えられる時代。
posted by Fukutake at 08:22| 日記