2021年11月04日

死因の意味

「死体は嘘をつかない −全米トップ検死医が語る死と真実−」(“MORGUE A Life in Death”) ヴィンセント・ディ・マイオ 満園真木(訳)東京創元社

 p34〜

 「検死医の仕事とは、簡単にいえば、人がなぜ、どのようにして死亡したのかを判断することだ。より専門的にいえば、死の原因と種類の特定ということになる。死の原因というのは、人を死にいたらしめた病気や怪我、たとえば心臓発作、銃創、エイズ、自動車事故などをいう。死の種類というのは、自然死、事故死、自殺、他殺の四種類のいずれかだが、そこに加えて悩ましい五つ目の分類がある。すなわち“不明”だ。

 我々の判断は、死者以上に生者に影響をおよぼす。死者にはもうなんの憂いもないが、生者は刑務所行きの恐れがある。ウィルスや細菌から救われる命があるかもしれないし、誰かの潔白が証明されるかもしれない。疑問に答えが出たり、疑惑が裏づけられたりすることもありうる。だからこそ、検死医には偏りのない、事実にもとづいた科学的結論を出すという重い責任がある。死亡した人物の家族や友人、敵、隣人が何を望んでいようと、真実はつねに、人がこうであってほしいと望むことよりも上にあるのだ。自殺者の身内に残酷な知らせを届け、抗議されたことは数えきれないほどある。愛する者が自ら死を選ぶほど愛されていないと感じていたと、遺族は信じたがらない。銃の手入れの中の事故であったり。高い橋から足を踏みはずしただけであったりしてほしいのだ。検死医が事故だと宣言してくれれば、遺族は晴れて罪の意識から解放されて生きてゆけるというわけだ。

 息子や娘が殺害されたと告げられ、両親が安堵のため息をつく姿さえ見てきた。まるで自殺よりはましだったというように。それは死者ではなく生者の都合なのだ。
 私は遺族の聞きたくないことを告げることもあれば、聞きたいことを告げることもある。しかしどちらであっても、私が真実を告げることには変わりはない。
 私は誰の味方もしない。私の知っていることこそが肝心であって、私がどう感じているかは無関係だ。法医学者の使命は真実を明らかにすることであり、私は公平な真実を告げることを求められている。事実に倫理性はない。我々がそこに投影するものにあるだけだ。

 謎とはつまり答えの出ていない疑問である。理解できたとき、それは謎ではなくなるばかりか、たいていは理解するほどの価値もないと思うものだ。人はそういうところが面白い。
 この世はそもそも合理的ではない。我々はあらゆるものごとに明快さを求めながら、しばしば曖昧さを進んで受けいれる。陰謀論、超自然現象、神話や言い伝えなどもその一部だ。
 私は深遠な思想の持ち主ではない。人間の行動や、星の動きや、小さな偶然の魔法について、そこに深い意味を見いだそうともしない。我々がときとしてそういうものに驚かされるのは、世界がその意味を(そもそも意味が存在したとして)かたくなに明かそうとしないからだ。」

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posted by Fukutake at 07:36| 日記

林芙美子

「林芙美子随筆集」 武藤康史 編 岩波文庫

 私の二十歳 p90〜

 「二十歳の頃は、私の精神的な家系はまだ空々漠々としていて、人生的にひどく若いものでした故、私はよく怒ったり泣いたりしていました。二十歳の私に芸術を云々することはセンエツな事だけれども、二十歳には二十歳の芸術感応があるとするならば、私は芸術よりも働き食べることに専念していたようであります。−− 二十一歳の時ジイドの背徳者を読み、その一年はふらふらになったことを記憶しています。ジイドを素通りしてひどく書きやすさを感じたせいでしょう、私はその頃、自分を慰めいたわる為に「日記」を書きつづけていました。後年、型をあらためて『放浪記』として出版しましたが、日記を書き続けていたせいか、いまとなっては、それが大変役立っているのに気がつきます。−− 私は、その頃、作家になろうなぞとは夢々思いもよりませんでした。だから、日記を書き続けることは実に愉しく、本を読むことは心を慰め涙を流す為にのみ役立っていたようです。

 その頃、ボオドレル、アルチュウル・ランボオ、ホイットマン、ハイネなどの詩にとりつかれていたようです。私の読書は乱読にちかく、全くチツジョがありませんでした。チエホフやプウシュキンの作品もその頃知るようになりました。私は自分の読書について何時も考えるのは働いていたせいか、いわゆる雄篇とでも云った長篇に何とないうっとうしい気持ちを持っていたようです。横光(利一)たちの若々しい(当時)新感覚派の作品よりも、加能作次郎氏のものなぞ愛読していました。机上の芸術派より、体験の芸術に心ひかれていた様であります。葛西善蔵氏なぞのものは貪るように読みました。
 文章の技巧では志賀直哉氏のものを好んでいました。何気なき風格を愛していたせいでしょう。それに自分が働いていたせいか、氏の『小僧の神様』は長い間忘れられなかったものです。自分にもあのような物好きな人が現れて寿司をぞんぶんに食わせてくれぬものかと思ったものです。

 何になろうかとも、何をしようかとも考えなかったようです。女だったせいでもあるでしょう。肉親に遠く離れて都会の片隅に働いていた私は、その頃何を考えていたのかさっぱり見当がつきません。別に恋愛もなかったようです。でも、大変淋しい生活であったことはその頃の日記を見ると、随分「少女らしい」事が書いてあるので自分で微笑するのです。
 一度、こんなに誰も愛してくれない人生なんてつまらないと云った気持ちで、貰った月給をみんな持って上野の駅に行き、デタラメに茨城の羽黒と云う所へ旅立って行った記憶がありますが、二十歳の私はひどくこどくであったようです。友人はひとりもなく、読書ばかりでした。二十歳の頃の記憶はとりとめのなかったことだけで、人生について何の信念ももたなかったようです。ただその頃、私は非常に絵と音楽が好きでした。絵は何度か展覧会へ出しましたが、貧しくて絵の具が不自由であったせいか、色が大変きたなくて、何度も落選のうきめを見ていました。初落選は十八歳の時で、そんなことが四、五年も続いたようです。 −− 全く、作家になろうなぞとは夢にも思わなかったのです。」

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posted by Fukutake at 07:34| 日記

林芙美子

「林芙美子随筆集」 武藤康史 編 岩波文庫

 私の二十歳 p90〜

 「二十歳の頃は、私の精神的な家系はまだ空々漠々としていて、人生的にひどく若いものでした故、私はよく怒ったり泣いたりしていました。二十歳の私に芸術を云々することはセンエツな事だけれども、二十歳には二十歳の芸術感応があるとするならば、私は芸術よりも働き食べることに専念していたようであります。−− 二十一歳の時ジイドの背徳者を読み、その一年はふらふらになったことを記憶しています。ジイドを素通りしてひどく書きやすさを感じたせいでしょう、私はその頃、自分を慰めいたわる為に「日記」を書きつづけていました。後年、型をあらためて『放浪記』として出版しましたが、日記を書き続けていたせいか、いまとなっては、それが大変役立っているのに気がつきます。−− 私は、その頃、作家になろうなぞとは夢々思いもよりませんでした。だから、日記を書き続けることは実に愉しく、本を読むことは心を慰め涙を流す為にのみ役立っていたようです。

 その頃、ボオドレル、アルチュウル・ランボオ、ホイットマン、ハイネなどの詩にとりつかれていたようです。私の読書は乱読にちかく、全くチツジョがありませんでした。チエホフやプウシュキンの作品もその頃知るようになりました。私は自分の読書について何時も考えるのは働いていたせいか、いわゆる雄篇とでも云った長篇に何とないうっとうしい気持ちを持っていたようです。横光(利一)たちの若々しい(当時)新感覚派の作品よりも、加能作次郎氏のものなぞ愛読していました。机上の芸術派より、体験の芸術に心ひかれていた様であります。葛西善蔵氏なぞのものは貪るように読みました。
 文章の技巧では志賀直哉氏のものを好んでいました。何気なき風格を愛していたせいでしょう。それに自分が働いていたせいか、氏の『小僧の神様』は長い間忘れられなかったものです。自分にもあのような物好きな人が現れて寿司をぞんぶんに食わせてくれぬものかと思ったものです。

 何になろうかとも、何をしようかとも考えなかったようです。女だったせいでもあるでしょう。肉親に遠く離れて都会の片隅に働いていた私は、その頃何を考えていたのかさっぱり見当がつきません。別に恋愛もなかったようです。でも、大変淋しい生活であったことはその頃の日記を見ると、随分「少女らしい」事が書いてあるので自分で微笑するのです。
 一度、こんなに誰も愛してくれない人生なんてつまらないと云った気持ちで、貰った月給をみんな持って上野の駅に行き、デタラメに茨城の羽黒と云う所へ旅立って行った記憶がありますが、二十歳の私はひどくこどくであったようです。友人はひとりもなく、読書ばかりでした。二十歳の頃の記憶はとりとめのなかったことだけで、人生について何の信念ももたなかったようです。ただその頃、私は非常に絵と音楽が好きでした。絵は何度か展覧会へ出しましたが、貧しくて絵の具が不自由であったせいか、色が大変きたなくて、何度も落選のうきめを見ていました。初落選は十八歳の時で、そんなことが四、五年も続いたようです。 −− 全く、作家になろうなぞとは夢にも思わなかったのです。」

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posted by Fukutake at 07:31| 日記