「中国名文選」 興膳宏 岩波新書 2008年
陶淵明*「桃花源(とうかげん)の記」p93〜
「陶淵明の文学は、一見したところ平淡に見えながら、その実複雑で多彩な趣を秘めている。「桃花源の記」も、また彼のそうした一面がよく発揮された作品である。陶淵明が夢想するのは、彼の住む農村と同じように、人々は耕作にいそしみ、のどかに鶏や犬の鳴き声が聞こえてくるようなところである。」
(著者の訳より)
「晋の太元(三七六〜三九六)の世に、武陵(現在の湖南省常徳市一帯)の人で、魚を捕って暮らしを立てている者がいた。ある日、谷川沿いに川を上ってゆくうちに、どれほど来たのかわからなくなってしまった。すると、突然、桃の花さく林に出くわし、両数百歩の間に、他の樹木はなく、かぐわしい花が色鮮やかにさき満ちて、花びらがはらはらと散っていく。漁師はふしぎなこともあるものと思い、なおも進んでいって、林の奥まで見きわめてやろうとした。林は水源のあたりで尽きていて、すぐにそこに一つの山があった。
山には小さな洞穴があり、かすかに光が射しているようだった。漁師はそこで船を乗り捨てて穴から入ってゆくと、はじめはごく狭くて、人一人がやっと通れるほどだった。さらに数十歩進むと、からりとあたりが開けた。土地は平らかで広く、家家はきちんと建ち並び、肥沃な田畑、美しい池、桑畑や竹林などがあった。道路は四方に通じて、鶏や犬の鳴き声が聞こえてくる。そこに行き交い農作業をする男女の衣服は、すべて外の世界の人と同じである。年寄りから子どもまで、みなにこやかに楽しげな様子だった。
漁師の姿を見つけると、人々はいたく驚いて、どこから来たのかと尋ねた。詳しくわけを話すと、すぐに家に連れて帰り、酒をしつらえ鶏をつぶしてご馳走をしてくれた。村ではこの人がいると聞くと、みなやって来て質問攻めにした。主人が自らいうには、「先祖の世に秦*の時の乱を避けて、妻子や村人を引き連れて、この人里離れた土地にやって来てから、ずっと外に出たことがなく、外の世界の人とは隔たってしまったのです。」そして、「今は何という時代ですか」と聞く。なんと漢のあったことも知らず。まして魏や晋はいうまでもない。この人(漁師)がいちいち自分の聞き知ったことを詳しく話すと、みなへーとため息をついて呆れている。ほかの人々もそれぞれの家に彼を招いて、どこでも酒食をふるまった。こうして数日とどまったあと、いとまを告げた。別れ際にここの人々は、「外界の人々にいうほどのことではありませんぞ」といった。
漁師はそこを出て、船を見つけると、もと来た順路をたどりながら、あちこちに目印をつけておいた。郡のまちに着くと、郡の太守のもとに参上して、かくかくしかじかと一部始終を告げた。太守はさっそく人を遣って漁師の後につき従わせ、先につけた目印通りにたどっていったが、結局迷ってもとの道を見出せなかった。
南陽の劉子驥*(りゅうしき)は、行ないの高潔な人物だった。この話を聞くと、喜びいさんで行ってみようとしたが、ことを果たさぬまま、間もなく病気になって亡くなった。それ以後は、そこを訪ねようとする人は誰もいない。」
陶淵明* 三六五〜四二七。中国魏晋南北朝時代の文学者。隠逸詩人、田園詩人と呼ばれる。
秦* 紀元前二二一年に史上初めて中国を統一し、紀元前二百六年に滅亡した。
劉子驥* 実在の人物。『晋書』隠逸伝に伝記がある。
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蕪村の桃源郷
「與謝蕪村の小さな世界」 芳賀徹 中公文庫
蕪村における桃源郷 p154〜
「蕪村は野道・山路の徒歩の感覚をしる画家であった。彼は、南画作品のみならず、さらに多くの俳句や詩でも「細道」や「径(こみち)」に一種のこだわりを示し、深い夢想をそれに託している。あるいはその「籠り居」から発する「小径」の詩人であるといってもよいほどだった。
茶畑に細道つけて冬ごもり
細道を埋(うず)みもやらぬ落葉哉
細道になり行く声や寒念仏
これきりに径(こみち)尽たり芹の中
路たえて香にせまり咲くいばらかな
花いばら故郷の路に似たる哉
花に暮て我家遠き野道かな
我帰る道いく筋ぞ春の艸(くさ)
これらの「細道」や「径(こみち)」や「路」の句は、みなゆるやかな意味で桃源郷のトポス*の圏内にあったといってもよいのではなかろうか。「これきりに径尽たり」にしても、「路たえて香にせまり咲」にしても、これまでたどって来た小径がふと消えてしまう感覚を言う。行きどまりなどというのではなくて、細流が地中に吸われてしまうように小径が搔き消え、行方不明になってしまうのだろう。まことにするどい新感覚の発見であり、美しい句だが、実はこれもあの「桃花源記」の結びに繰り返される不可逆のしるし、「遂迷不復得路」(遂に迷いて復た路を得ず)や「後遂無問津者」(後には遂(か)くて津(しん=かなたへの入り口)を問う者も無し)の、蕪村みずからの体験による俳句化だったのではなかろうか。
「桃花源記」は、高尚の士劉子驥の病死をも加えてこのように幾重もの終幕をおろして閉じられる。そのためいっそうあざやかに、桃花源の映像は、谷と山々のかなたに春の日をたたえたままのすがたで閉ざされ、その帰れぬ世界へのかぎりない郷愁を私たちの心によびおこす。蕪村の句でも同じく、「故郷の路に似た」路がみずみずしい芹の群生の緑や、鼻をつく野いばらの香りのなかに途絶えていったとき、そのかなたに、「我帰る」べき故郷、あの失われた桃源は、いっそう強く深く喚起されるのである。」
トポス* ギリシャ語「場所」。詩学では、おいて特定の連想ないし情念を喚起する機能をもつテーマや概念。
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蕪村における桃源郷 p154〜
「蕪村は野道・山路の徒歩の感覚をしる画家であった。彼は、南画作品のみならず、さらに多くの俳句や詩でも「細道」や「径(こみち)」に一種のこだわりを示し、深い夢想をそれに託している。あるいはその「籠り居」から発する「小径」の詩人であるといってもよいほどだった。
茶畑に細道つけて冬ごもり
細道を埋(うず)みもやらぬ落葉哉
細道になり行く声や寒念仏
これきりに径(こみち)尽たり芹の中
路たえて香にせまり咲くいばらかな
花いばら故郷の路に似たる哉
花に暮て我家遠き野道かな
我帰る道いく筋ぞ春の艸(くさ)
これらの「細道」や「径(こみち)」や「路」の句は、みなゆるやかな意味で桃源郷のトポス*の圏内にあったといってもよいのではなかろうか。「これきりに径尽たり」にしても、「路たえて香にせまり咲」にしても、これまでたどって来た小径がふと消えてしまう感覚を言う。行きどまりなどというのではなくて、細流が地中に吸われてしまうように小径が搔き消え、行方不明になってしまうのだろう。まことにするどい新感覚の発見であり、美しい句だが、実はこれもあの「桃花源記」の結びに繰り返される不可逆のしるし、「遂迷不復得路」(遂に迷いて復た路を得ず)や「後遂無問津者」(後には遂(か)くて津(しん=かなたへの入り口)を問う者も無し)の、蕪村みずからの体験による俳句化だったのではなかろうか。
「桃花源記」は、高尚の士劉子驥の病死をも加えてこのように幾重もの終幕をおろして閉じられる。そのためいっそうあざやかに、桃花源の映像は、谷と山々のかなたに春の日をたたえたままのすがたで閉ざされ、その帰れぬ世界へのかぎりない郷愁を私たちの心によびおこす。蕪村の句でも同じく、「故郷の路に似た」路がみずみずしい芹の群生の緑や、鼻をつく野いばらの香りのなかに途絶えていったとき、そのかなたに、「我帰る」べき故郷、あの失われた桃源は、いっそう強く深く喚起されるのである。」
トポス* ギリシャ語「場所」。詩学では、おいて特定の連想ないし情念を喚起する機能をもつテーマや概念。
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posted by Fukutake at 08:12| 日記