2021年11月15日

悪政

「三略」 眞鍋呉夫(訳) 中公文庫 2004年

上略19 p51〜

 「『軍讖*』は、不埒な為政者、高官、役人、貴族などについて、それぞれ次のように戒めている。

「為政者が悪政を行えば、人民は疲弊する。税金が重く、たびたび取り立てられ、また刑罰が厳しすぎれば、人民は道理を失ってしまう。これを亡国と言うのである」

「大臣をはじめとする高官のなかには、みかけは清廉でも実際は貪欲で、不当な名声をむさぼっているものがいる。また、公費をくすねて私恩を売り、上司や部下を煙に巻く者もいる。外見を飾りたたて正義面をして、まんまと高い官位を手に入れる者もいるが、世に盗の端というのはこれらの高官どものことを言うのである。」

「夥しい役人のなかには、お互いに徒党を組んで、自分に親しい者だけのあと押しをする者がいる。また、悪人を引き立てて、善人をしりぞける者もいる。公私を混同して、同僚の足を引っぱる者もいるが、世に乱の源というのはこれらの役人どものことを言うのである。」

「貴族たちのなかには、お互いに馴れあって言いたい放題、位階もないのに尊大で、やたらに威張りくさっている者がいる。また雑草の蔓のようにはびこり、悪徳を重ねて私恩を売りつけ、揚句のはてには君主の位を奪いかねないような者もいる。人民をしいたげ、愚弄し、そのために国内が混乱しても、家臣たちが主の横暴をひたかくしにしてくれるのをいいことに、のうのうと安逸をむさぼっているような者もいるが、世に乱の根というのはこういう貴族どものことを言うのである」
軍讖*(ぐんしん):兵法の書、軍の勝敗を予言的に述べたもの。

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隣国の現状そのもの。いずれ乱が起こり、滅亡しよう。

posted by Fukutake at 07:50| 日記

2021年11月11日

寸暇でも惜しむ

「新版 発心集 上」 鴨長明  浅見和彦・伊東玉美(訳注) 角川文庫

ある上人が客人に会わなかったこと p311〜

 「長年信心深く、念仏を怠らない聖がいた。互いによく知っている人が面会しようと思い、わざわざやって来たが、「どうしても時間を作れない用事があって、お会いすることができません」と言う。弟子が不思議に思い、その人が帰って後に「どうして会いたいという客人の願いを聞かないで帰してしまわれたのですか。さしつかえることもなかったようですのに」と言うと、「滅多に生まれられない人間に生まれることができた身だ。今回、生死の流転を離れて極楽に生まれ変わろうと思っている。これは我が身にとってこれ以上のことはない大切な勤めだ。これ以上の大事がどこにあろう」と言った。このことがあまりにも厳格に思われるのは、自分心が至らないからであろう。

 坐禅三昧経に次のように言う。
  今日このこと営み、明日あのことを為す。欲望が執着して本当の苦を感得することができず、死という敵が迫っていることに気付かない、云々
 世の中の人は、やはり、後世のことを思わない者はいない。しかし、今日はこのことしよう、明日はあのことをしよう、と思っているうちに、無常という名の敵がだんだんと近づいてきて、命を奪っていくことに気づいていないのだ。」

(原文)p97〜
 「年頃道心深くして、念仏おこたらぬ聖ありけり。あひ知りたる人の対面せんとて、わざと尋ね来たりければ、「大切に暇(いとま)ふたがりたることありて、え会ひ奉るまじき」といふ。弟子あやしと思ひて、その人帰りて後「など本意(ほい)なくては帰し給へるぞ。差し合ふことも見え侍(はんべ)らぬを」といへば、「あひ難くして人身を得たり。このたび生死(しやうじ)を離れて、極楽に生れんと思ふ。これ身にとりて、極りたる営みなり。何ごとかこれに過ぎたる大事あらん」とぞいひける。このことあまりきびしく覚ゆるは、我が心のおよばぬなるべし。
  坐禅三昧経にいわく、
 今日このことを営み、明日(みやうにち)かのことを造る。
 楽著(らくちやく)して苦を観ぜず、死賊の至れるを覚えず、云々
世の中にある人、さすがに後世を思はざるなし。今日はこのことをせん、明日はかのことを営まんと思ふほどに、無常の敵(かたき)のやうやく近づきて、命を失うことをば知らざるなり。」

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まあ、確かにそうだが。
posted by Fukutake at 11:39| 日記

旧友との再会

「言葉との新しい契約」 山極壽一  谷川俊太郎『虚空へ』の書評より
月刊誌「波」2021年10月号 掲載 P19〜

 「…十数年前に私はあるゴリラに会いにアフリカへ旅したことがある。タイタスという名のオスゴリラで、26年ぶりの再会だった。初めて会ったとき、タイタスは6歳、人間でいえば中学に上がったばかりの少年である。私は苔むした森の奥の小屋に住み、ほとんど人間と接触せずに、毎日のようにタイタスと会って暮らしていた。それは研究者にとって至福の時間であり、私は言葉をしゃべらないゴリラと気持ちを通じ合わせる術を学んだ。約2年間をゴリラと一緒に過ごした後、私は帰国したが、だんだん現地の政治情勢が悪化して内戦に発展し、研究者は森に入ることができなくなってしまった。20年以上たって平和が戻り、タイタスが健在だという知らせが舞い込んだ。もう彼は34歳になっていて、人間ならなば老境に達している。この機会を逃すともう会えないなあと思い、何とか都合をつけて現地に向かったのである。

 森に入ってすぐにタイタスの群れを見つけた。彼はすっかり老いていたが、十数頭のゴリラの群れを率いる威厳のあるリーダーだった。現地のルールに従って私は8メートル離れてタイタスと接し、観察を許された1時間、彼の注意を引こうとしてみたが、彼は私に気づくそぶりを見せなかった。無理もない、26年もたって昔の遊び仲間が、老けた顔で突然現れたのだ。そんな簡単に記憶が戻るはずがない。

 しかし、その2日後に再び会いに行ってみると、今度は様子が違った。タイタスは私を見つけると真っ直ぐにやってきて、私の顔をまじまじと見つめたのだ。私があいさつ音を出すと彼も同じ声で答えた。彼の表情が瞬く間に少年のように変わり、彼は昔のようなしぐさであおむけに寝転んだ。そして、近くの子どもゴリラを捕まえると無邪気に笑いながら遊び始めたのだ。

 あっけに取られた私は、でもこれがゴリラにとって記憶を戻すということなんだと理解した。言葉を持たないゴリラは風景を切り取ったり、意味を与えたりしない。きっと記憶は何枚もの絵になって頭の中に収められているんだろう。その一枚が取り出されると、ゴリラはその絵の中に入り込んでしまう。それはタイタスのように、過去の時代に体ごと戻るということになる。

 人間でも、年老いると記憶の中の時間のつながりが薄れていく、言葉の意味があいまいになり、ゴリラのように言葉を介さずに風景だけが静止画のように出てくるようになる。タイタスは私という昔の仲間に会ったことを触媒にして昔の自分に戻った。言葉を放棄すれば、人間でも同じことが起こるのだ。」

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感動する話。
posted by Fukutake at 11:33| 日記