2021年10月27日

昭和十年代の浅草

「波」monthly magazine 2021年1月 新潮社

川本三郎「荷風の昭和 32回」より p128〜

 「浅草の軽演劇、とりわけオペラ館の舞台に惹かれた荷風は随筆「浅草公園の興行物を見て」を書き、ここでもオペラ館の演し物を絶讃する。
「曲馬の新舞踏に興味をおぼえたので、その夜からわたくしは他の興行物も一通り見歩く気になって、交番の傍に在るオペラ館に這入った。演劇とルヴューとが交(かわ)る々々二幕ずつ演じられる。わたくしは初め何の考えもなく、即ち何の期待も予想もなく這入って見たのであるが、其演劇を見て非常に感服した。
 荷風が見たのは「残された女」という一幕物。郊外の貧しい借屋に住む一家の物語。兄はダンスホールの恋人がいて結婚しようとしているが、母がこれを許さない。
 父は職を失っている。貧しい家の家計を妹のわずかな給料が支えている。ところが、これは、兄と恋人のダンサーがひそかに妹へ送っていた金だった。やがて兄に召集令状が来る。母、妹、それに兄の恋人、三人の残された女性がそれぞれの思いを抱えて、その出征を見送る。日中戦争下らしい人情劇である。

 荷風はこれに感動した。おそらく浅草の小さな劇場で庶民と共にこれを見たからいっそうの感動があったのだろう。
 高見順は雑誌「文芸」の昭和十四年から翌十五年にかけて連載した、浅草を舞台にした長編小説『如何なる星の下に』のなかで、作者自身を思わせる「私」が、東京の「場末」四つ木に住む貧しいブリキ職人の小学生の娘、豊田正子が書いた作文の映画化作品、山本嘉次郎監督、高峰秀子主演の「綴方教室」(一九三八年)を、丸の内の映画館で見た時と浅草で見た時では、観客の反応が正反対だったと書いている。

 徳川夢声演じるブリキ職人の父親が無一文で正月を迎えなければならないと暴れる場面で、丸の内では観客がその様子が可笑しいと笑った。学生や知的階級の観客には貧しさが理解出来なかったからである。それに対し、浅草の観客は貧しさを知っているから同じ場面で泣いた。「私」は、当然、浅草の観客に心を寄せる。
 荷風もまたオペラ館の人情もの舞台に心動かされたのは同じような心情からではなかったか。」

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posted by Fukutake at 10:29| 日記

フロイスの見た安土城

「フロイスのみた戦国日本」 川崎桃太 中公文庫2006年

安土城を訪れる p60〜

 「五機内を制覇した信長は「天下人」の位と称号を手に入れた。東西の敵と休む暇もなく死闘を繰り返してきた末の勝利である。それらはいずれも運命に支えられたと思わせるものばかりであった。殿にはデウスが味方しておられる、時おり伴天連がそういうのを信長は半信半疑で聞いていた。しかし、過ぐる日の不敵な行動を振り返れば、そんな加護があったようにも思えてくるのだった。
 天下を取った信長は、都に近い安土を戦略と経済の要衝と定め、それまで誰も考えたこともなかったような、新奇で豪華な居城を構えることにした。安土山の頂上に天守閣を築き、豪華な館と御殿を配し、麓から山腹までを家臣団の屋敷で固めた。入口と上部に監視所を置き、高い石垣に囲まれたそれらの屋敷は、それ自体が手ごろな城をなしており、山全体が城塞として機能するよう考案されていた。
 安土山は、今もそこを訪れる者を過去の夢に誘ってくれる。信長時代の安土山は、湖の水が入江となって麓を取り巻いていた、と記述にはある。もしそうだとすれば、当時湖面をなしていた相当量の面積が、今では干拓地に変わったことになる。狭い西側の入口から石段を登り、樹木に覆われた小路をしばらく行くと、突如、周囲を圧するように、巨大な石の城壁が右手に現れる。その豪奢な七層の天守閣が聳えていたとされる跡地がその先にある。
 干からびた固い土に覆われた高台の一角に立てば、美しい湖水が望見される。信長も塔の外廊からこの眺めを楽しんだことだろう。信長は四年の歳月を掛けてここに城を完成させた。すべての工事が終わったのは一五七九年(天正七年)*のことであった。現在では模型を通してその輪郭は知られてきたものの、天守閣を含めた城の全貌を正確に伝えることのできる者は誰もいない。そうなると、信長に招かれて城をつぶさに観察したフロイスこそ、安土城を後世に伝える上での最高の適任者といえるだろう。

    信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗において、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。(中略)塔は七層からなり、内部、外部とも驚くほど見事な建設技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている、外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは(中略)黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、(中略)他のあるものは赤く、あるものは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。この天守は(中略)堅牢で華美な瓦で掩われている。(フロイス『日本史』)

 フロイスの眼が捉えた安土城の記述はこのほかにもある。それによると、山頂の建設現場に引き揚げるのに、四、五千人を要したほどの大きな石もあったという。ある時など、石が滑り出して百五十人の引き手がその下敷きとなって死んだと書かれてる。
「この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営した」との証言もある。
 最近、地元で進められている大規模な調査の結果、あの七層の天守が、廊下伝いに他の宮殿に繋がっていたことが確かめられた。その宮殿は、御所の清涼殿に肖(あやか)って造営された御殿であることも疑いないようである。」

*本能寺の変は、一五八二年(天正十年)
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posted by Fukutake at 10:25| 日記