「自省録」 マルクス・アウレーリウス 神谷恵美子訳 岩波文庫
p119〜
「六八
たとえ万人が君に抗して勝手なことを叫ぼうとも、たとえ野獣どもが君のまわりに厚く蓄積した捏(ひね)り物(すなわち肉体)の四肢を八つ裂きにしようとも、なんの強制を受けることなく、喜びに満ちた心で生涯をすごせ。すべてかかる苦境において自分の心を平静に保ち、周囲の物事に関して正しい判断を持ち、遭遇するものをつねによく利用するだけの心がまえをしておくのになんの差支えがあろうか。こうしておけば自分の出くわす物事にたいして判断力はつぎのごとくいえるはずである。「たとえ一般の人の意見はちがったもののようであっても、本質においてはこれなのである」と。また物事を利用する能力は自分に起こった事柄に向ってつぎのごとく言えるはずである。「私は汝を求めていた。なぜなら私にとって現在与えられているものはつねに理性的および社会的な徳を発揮するための材料であって、一言にしていえば人間または神のわざに用うべき素材なのである」と。まことにすべて生起する事柄は神または人間に関係の深いもので、新しくもなければ扱い難くもなく、親しみ深く処理しやすいものである。
六九
完全な人格の特徴は、毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのごとくすごし、動揺もなく麻痺もなく偽善もないことにある。
七〇
不死なる神々は、こんなに長い間こんな人間ども、それもこんなに大ぜいのやくざな人間どもを絶えず我慢しなくてはならないことを不快に思ってはいられない。それのみか、種々さまざまのやりかたで人間どもの世話を焼いて下さる。ところが君ときたら、もうすぐ死ぬくせに、参ってしまうのか。しかも君自身そのやくざな人間の一人でありながら?
七一
笑止千万なことには、人間は自分の悪を避けない。ところがそれは可能なのだ。しかし他人の悪は避ける。ところがそれは不可能なのである。
七二
我々の理性的および社会的能力が理性的とも社会的とも認めぬものは、自分よりも低いものであると判断して充分根拠のあることだ。
七三
君が善事をなし、他人が君のおかげで善い思いをしたときに、なぜ君は馬鹿者どものごとく、そのほかにまだ第三のものを求め、善いことをしたという評判や、その報酬を受けたいなどと考えるのか。
七四
なんぴとも利益を受けることに倦み疲れはしない。しかるに自然にかなった行為こそ有益なのである。ゆえに人を益することによって自分の身をも益することに倦むな。
七五
「全体」の自然は自己の衝動によって宇宙の創造に向った。ところが現在は、すべての出来事は因果律に従って生ずるか、もしくはすべて非合理的であって、宇宙の指導理性が自己の固有の衝動を向けるもっとも重大なことでさえも例外ではない。多くの場合においてこのことを思い起こせば君ももっと平静になるだろう。」
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「本書の原題「自分自身に」の示すとおり元来ひとに読ませるつもりで書いたものではない。」訳者
自分自身に向っての手記であった。
2021年10月26日
自分の悪を避け得ない
posted by Fukutake at 08:17| 日記
死せる不滅の天皇制
「決定版 三島由紀夫全集 37」 月報より
思想の航海術 「失われた王国へ」抄出 田中美代子 p5〜
「…昭和二十年八月十五日。この日を境に、私たちは全く異質な不可解な世界に堕ち込んだ。しかしそんな気象学的体験に、人々はたちまち適応する。ただ、ある少数のみが、鋭くこれを感受し、歴史の証言者となるのである。
これまで現人神の存在を、自明のものとして受け容れてきた民族にとって、「天皇の人言宣言」がいかに奇態な体験であったか。それは、近代日本の精神史を二分した決定的な事件であり、昭和を<二十年でプッツリ>切断する一瞬だったのだ。以来、日本には、戦後世代という別の人種が生まれたのだ、といってもいい。
現場に居合わせた人々には、風景がにわかに暗転したかのようであり、…深海から引き上げられた魚が、みるみる変色し、目はとび出して息絶える異様な有様に立ち会う心持ちだったのかもしれない。
…
三島は、「天皇の人間宣言」による日本人のこうした魂の激震に焦点をあて、二・二六事件三部作をはじめとする数々の作品によってこの問題を追求しなければならなかった。彼はひたすら”平和日本”から消え失せた魂の行方を追っていたのである。
…
では、この不可思議な「死せる不滅の天皇制」とは、一体どんな構造を秘めているのだろう。そして死せる神聖は、今日どのように恢復可能だろうか?
…
いずれにせよ三島由紀夫は、根こそぎされた日本人の魂の蘇生という”不可能な使命(ミッション・インポッシブル)”を帯びて、その理論武装に渾身の力を傾けようとした。
彼はまず<日本における唯一の革命原理は天皇にしかない>と人々の意表をついた、大胆な定言を掲げる。なぜなら天皇制は、もともとザインとゾルレンの、即ち人と神との二重構造を持つ神学だからだ。
<この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像といふものは歴史と伝統によって存続し得るし、又その観念的、連続的、理想的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと私は考へる。そして現在われわれの前にあるのはゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になる得るといふことを主張してゐるのである。そこで私はその観念的、空想的あるひは理想的な天皇を文化的天皇と名づけ、これの護持を私の政治理念の中核に置いてゐるのである>(「砂漠の住民への論理的弔辞ー討論を終へて」)
しかし人々は当然のことに、この耳新しい二元論を理解しなかった。大方の予想通り、ワッとばかりに押し寄せたのは、政治的諸勢力だった。天皇制と軍隊、…権力にとってこれほどの好餌があるだろうか。
昭和四十五年、ライフ・ワークの最終巻「天人五衰」がにわかに短縮され、あれほど傷ましい大円団に到ったのは何故か?
実際、敵も味方も、この時、「地上の天皇制」をしか、見てはいなかったのである。」(文芸評論家)
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思想の航海術 「失われた王国へ」抄出 田中美代子 p5〜
「…昭和二十年八月十五日。この日を境に、私たちは全く異質な不可解な世界に堕ち込んだ。しかしそんな気象学的体験に、人々はたちまち適応する。ただ、ある少数のみが、鋭くこれを感受し、歴史の証言者となるのである。
これまで現人神の存在を、自明のものとして受け容れてきた民族にとって、「天皇の人言宣言」がいかに奇態な体験であったか。それは、近代日本の精神史を二分した決定的な事件であり、昭和を<二十年でプッツリ>切断する一瞬だったのだ。以来、日本には、戦後世代という別の人種が生まれたのだ、といってもいい。
現場に居合わせた人々には、風景がにわかに暗転したかのようであり、…深海から引き上げられた魚が、みるみる変色し、目はとび出して息絶える異様な有様に立ち会う心持ちだったのかもしれない。
…
三島は、「天皇の人間宣言」による日本人のこうした魂の激震に焦点をあて、二・二六事件三部作をはじめとする数々の作品によってこの問題を追求しなければならなかった。彼はひたすら”平和日本”から消え失せた魂の行方を追っていたのである。
…
では、この不可思議な「死せる不滅の天皇制」とは、一体どんな構造を秘めているのだろう。そして死せる神聖は、今日どのように恢復可能だろうか?
…
いずれにせよ三島由紀夫は、根こそぎされた日本人の魂の蘇生という”不可能な使命(ミッション・インポッシブル)”を帯びて、その理論武装に渾身の力を傾けようとした。
彼はまず<日本における唯一の革命原理は天皇にしかない>と人々の意表をついた、大胆な定言を掲げる。なぜなら天皇制は、もともとザインとゾルレンの、即ち人と神との二重構造を持つ神学だからだ。
<この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像といふものは歴史と伝統によって存続し得るし、又その観念的、連続的、理想的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと私は考へる。そして現在われわれの前にあるのはゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になる得るといふことを主張してゐるのである。そこで私はその観念的、空想的あるひは理想的な天皇を文化的天皇と名づけ、これの護持を私の政治理念の中核に置いてゐるのである>(「砂漠の住民への論理的弔辞ー討論を終へて」)
しかし人々は当然のことに、この耳新しい二元論を理解しなかった。大方の予想通り、ワッとばかりに押し寄せたのは、政治的諸勢力だった。天皇制と軍隊、…権力にとってこれほどの好餌があるだろうか。
昭和四十五年、ライフ・ワークの最終巻「天人五衰」がにわかに短縮され、あれほど傷ましい大円団に到ったのは何故か?
実際、敵も味方も、この時、「地上の天皇制」をしか、見てはいなかったのである。」(文芸評論家)
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posted by Fukutake at 08:11| 日記