「新編 日本の面影」 ラフカディオ・ハーン 池田雅之=訳 角川ソフィア文庫
日本人の微笑(2) p309〜
「日本人の微笑を理解するには、昔ながらの、あるがままの、日本の庶民の生活に立ち入る必要がある。西洋かぶれの上流階級からは、なにも学び取ることはできない。
民族的な感情や感情表現の面で、西洋と極東とに見られる、明らかな相違の意味を探るには、常に変化に富んだ、あるがままの庶民の生活に目をむけなければならない。生にも愛にも、また死に対してすらも微笑を向ける、あの穏やかで親切な、暖かい心を持った人たちとなら、ささいな日常の事柄についても、気持ちを通じ合う喜びを味わうことができる。そうした親しみと共感を持つことができたなら、日本人の微笑の秘密を理解することができるのである。
日本の子供なら、生まれながらに備わっている、微笑を生む暖かい心根は、家庭救育のすべての全期間を通して養われる。しかもそのやり方は、庭木を自然な勢いに乗じて育てるのと、同じ絶妙さで行われる。微笑は、お辞儀や、手をついてする丁寧なお辞儀と同じように教えられる。それは、目上の人に挨拶をしたあと、喜びのしるしに、小さく音をたてて息を吸い込む作法のように、あらゆる昔流儀の入念で美しい作法のひとつとして教えられる。声をたてて大きく笑うのが勧められないのは、わかりきっている。反対に、微笑しているのであれば、愉快な場面ではいつでも、目上の人を相手にする場合だろうと、同輩相手だろうと大丈夫だし、不愉快な場面でさえ、可能である。微笑は、教養のひとつなのである。
相手にとっていちばん気持ちの良い顔は、微笑している顔である。だから、両親や親類、先生や友人たち、また自分を良かれと思ってくれる人たちに対しては、いつもできるだけ、気持ちのいい微笑(ほほえみ)を向けるのがしきたりである。そればかりでなく、広く世間に対しても、いつも元気そうな態度を見せ、他人に愉快そうな印象を与えるのが、生活の規範とされている。たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのである。
反対に、深刻だったり、不幸そうに見えたりすることは、無礼なことである。好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりするからである。さらに愚かなことには、自分に好意的でない人々の、意地悪な気持ちをかき立ててしまうことだって、ありうるからである。…」
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微笑みは義務。