「肉体百科」 群ようこ 文春文庫
皮膚 p84〜
「化粧品があまり肌に合わないわたしは、俗にいう皮膚の過敏症らしい。紫外線の量がふえる三月ごろから、外に出ると皮膚が赤くなってくる。七月、八月よりも私にとっての日焼けの季節は、三月から始まるのである。こういう状態だから、化粧品なんてほとんど使えない。自然化粧品もいろいろ使ってみたが、なかにはかぶれたりするものもあって悩まされた。それ以来、私はほとんどいつも素顔に近い状態である。紫外線が強くなってくる時期には、仕方がないから日焼け止めを塗るが、日焼け止めでかぶれたりするので、気は抜けない。帽子や日傘を併用して、なんとか皮膚に負担をかけないように苦労しているのだ。
化粧水のかわりにミネラル・ウォーター、乳液のかわりにアトピー用の椿油。私の皮膚はいたって経済的にできている。それだけでなく、五分もあれば私の顔面作成は終わる。母親に、「猫だって顔をきれいにするのに、もうちょっと時間をかけるわよ」といわれたくらいである。こんな調子でやっているのが、ふつうだと思っているから、友だちと旅行に行ったりすると、彼女たちの顔面作成があまりにおおごとなので、びっくりする。私のお道具は小さな袋ひとつだけなのに、彼女たちが大きな袋をふたつも持ってくる。それをホテルの鏡の前にどーんと並べ、朝起きたとき、風呂上がり、そしてでかける前と、三十分くらいずつ鏡の前にへばりついているのだ。彼女たちは手もちぶさたの私に、気を使ってくれる。私も、「気にしないで」と一応いうのだが、どうして、あんな時間がかかるのか不思議でならない。横目で盗み見ていたら、化粧品をひとつひとつ顔に塗るごとに、確認している。塗る化粧品の数が多いことと、ひと作業ごとの確認に時間がかかるのだ。
「そんなにいろんなものを塗る必要があるの」とたずねると、彼女たちは、
「もう習慣にかっているからね」と平気な顔をしている。面倒くさいことがとにかく大嫌いな私は、毎日、あれだけの時間をかけている彼女たちを、尊敬してしまうのだ。
私だって皮膚が過敏でなければ、きちっと化粧してみたい、これから歳をとっていったら、今よりもっと、みっともなくならないように気をつけなきゃならない。顔を見て怖くなるような厚化粧も嫌だが、まるっきりの素顔っていうのも難しい。皮膚にあれこれ塗りたくるのは、あまりよくないという話もあるようだから、このままでもいいのかもしれないが、たまには気分転換だってしたいのだ。そういう話をすると、母親は、「おかしいねえ。あんたのツラの皮は厚いはずなのに」とまた憎たらしいことをいって、私をいじめるのである。」
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愛の歌
「わが人生観 2」亀井勝一郎 大和書房 1968年
愛について p199〜
「人間の言葉で最も美しいもの
人は愛することによって言葉の価値を知る。いままで何げなく使っていた言葉は、もう言葉とは思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように一語一語に思いをこめ、その一語一語が花火のように花びらのように舞うのを自覚しながら、人は恋を語るであろう。いざなぎいざなみのみことは何処にでもいるのだ。人は愛することによって神話の創世記に入る。彼みずからが神となる。言葉がいのちであり、肉体や性や霊と一なるものであることを知るのはかかる時だ。そこに新生がある。自然はふたたびよみがえり、心はふたたび新鮮な輝きにみちわたる。言葉の改革を叫ぶものは、老若をとわず、まず恋愛をしてから改革をいうべきではなかろうか。
生ある者は必ず滅びる。人間、これは死すべきものだ。そしていかなる人間も自己の全願望をとげることなく死ぬ。いわば中途にして倒れるのが人間の運命であって、この意味では人はみな何ものかの殉教者であると言ってよい。人は死を凝視することによって言葉の価値を知る。ただ今臨終と覚悟してみよ。いままで何げなく使っていた言葉はもう言葉と思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように、一語一語無量の思いをこめて発するであろう。自己の衷心の願いを果たさんとして果たしえなかった無念の情を。すなわち、その人のいのちである一念を、語るであろう。人は自己の死によって言葉に生命を与える。詩人は言葉を生んで死ぬ。作品の完成とは作家の死だ。言葉を新しくしようと思うものは、つねに臨終の覚悟に生きなければならない。死を凝視して発する言葉に真の価値がある。
人間の言葉の中で、最も美しいのは、相聞と辞世であると、私は幾たびもくりかえし書いてきた。すなわち愛の歌と死の歌と、歌という形式のみを指すのではない。精神存続の健全な形態を言うのである。相聞と辞世。人がまじめに語り表現するところは、詮じつめればこの二つの形態しかない。それが何ものへの愛であろうとも、何もののための死であろうとも。そして愛の窮極の言葉は死の言葉、辞世につながる。故に、無学な女の人のかいた恋文すら、なお大文学の基礎とするに足りる。愛する人の死後、何が我々を最も悲しませるか。何を我々は切に思い出すのか。死せるその人の愛の声であり、言葉ではないか。」
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言葉は言霊
愛について p199〜
「人間の言葉で最も美しいもの
人は愛することによって言葉の価値を知る。いままで何げなく使っていた言葉は、もう言葉とは思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように一語一語に思いをこめ、その一語一語が花火のように花びらのように舞うのを自覚しながら、人は恋を語るであろう。いざなぎいざなみのみことは何処にでもいるのだ。人は愛することによって神話の創世記に入る。彼みずからが神となる。言葉がいのちであり、肉体や性や霊と一なるものであることを知るのはかかる時だ。そこに新生がある。自然はふたたびよみがえり、心はふたたび新鮮な輝きにみちわたる。言葉の改革を叫ぶものは、老若をとわず、まず恋愛をしてから改革をいうべきではなかろうか。
生ある者は必ず滅びる。人間、これは死すべきものだ。そしていかなる人間も自己の全願望をとげることなく死ぬ。いわば中途にして倒れるのが人間の運命であって、この意味では人はみな何ものかの殉教者であると言ってよい。人は死を凝視することによって言葉の価値を知る。ただ今臨終と覚悟してみよ。いままで何げなく使っていた言葉はもう言葉と思われないであろう。今はじめて言葉を発する人のように、一語一語無量の思いをこめて発するであろう。自己の衷心の願いを果たさんとして果たしえなかった無念の情を。すなわち、その人のいのちである一念を、語るであろう。人は自己の死によって言葉に生命を与える。詩人は言葉を生んで死ぬ。作品の完成とは作家の死だ。言葉を新しくしようと思うものは、つねに臨終の覚悟に生きなければならない。死を凝視して発する言葉に真の価値がある。
人間の言葉の中で、最も美しいのは、相聞と辞世であると、私は幾たびもくりかえし書いてきた。すなわち愛の歌と死の歌と、歌という形式のみを指すのではない。精神存続の健全な形態を言うのである。相聞と辞世。人がまじめに語り表現するところは、詮じつめればこの二つの形態しかない。それが何ものへの愛であろうとも、何もののための死であろうとも。そして愛の窮極の言葉は死の言葉、辞世につながる。故に、無学な女の人のかいた恋文すら、なお大文学の基礎とするに足りる。愛する人の死後、何が我々を最も悲しませるか。何を我々は切に思い出すのか。死せるその人の愛の声であり、言葉ではないか。」
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言葉は言霊
posted by Fukutake at 14:32| 日記