「アインシュタインにきいてみよう Ask Einstein (Genial Words)」 勇気をくれる150の言葉 弓場隆=編訳
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2006年
「122 怒りは、愚か者の心の中にだけ存在するものです。
129 日本はすばらしかったです。人々は絵のように美しい国に暮らしています。上品なマナー、芸術的感性、誠実さ、良識。どれをとっても最高でした。
130 モーツァルトの音楽はあまりにも純粋で美しく、まるで宇宙の内面の美しさを映し出しているようです。
140 他人の喜びを楽しみ、他人とともに苦しむことが、人間にとっていちばんすばらしい生き方です。
147 全身の具合が悪く、まるでポンコツのクルマのようです。しかし、まだ働けるかぎり、人生には意義があります。
148 老年にいたっても、人生にはたいへん美しい瞬間があります。
149 わたしは自分の晩年に満足しています。ユーモアの精神を持ち続け、自分と相手をあまり真剣に受け取らないように心がけていますから。
150 これから死ぬまで、光とは何かについてじっくり考えようと思います。」
おまけ アインシュタインの人物評
• ヒトラーについて
「ヒトラーはわずかな知能しか持たず、いかなる有益な仕事にも不向きで、自分より恵まれたすべての人をねたんで悪意を抱きました。そして、街のチンピラやルンペンを集めて、自分を中心に徒党を組んだのです。彼はそのようにして政治家になった人物です。」
------
2021年10月15日
アインシュタインの言葉
posted by Fukutake at 07:56| 日記
人間の堕落
「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年
雜談 p166〜
「思想の混亂といふことがいはれてゐるが、もつと恐ろしいことは、視覺や廳覺の混亂である。美しさがわかる感覺の衰へたことである。思想の混亂もただ思想によつて秩序づけようとする、安定させようとする。それは思想の上に思想を築く事で、いよいよ思想は混亂するだけだ。根本にある視覺や廳覺の混亂に気付かなければ駄目な事です。
昔の日本人は、支那や朝鮮の茶碗を非常に愛した。これらは向かうの職人がただの日用の茶碗として、美などといふことを考へずに作つたものである。しかし、そこに美しさを發見した。
かうして自然な平凡ななんでもないものに美を發見したした日本人は、今度は發見しただけでは濟まされなくなって、自分で作らうとした。自分の手で新しく非常に平凡な自然な茶碗を作らうとした。それが楽茶碗である。つまりこの楽茶碗はたいへん批評的なもので、ただの職人の茶碗ではない。かういふ工藝家は世界中にいない、面白い日本の特質である。日本の陶器の技術は、支那、朝鮮から来た。日本の獨創ではない。みんな眞似である。ただこの楽茶碗だけは日本の獨創の藝術品なのである。これはわざわざ不恰好な汚いものを作る、つまりわざわざ自然にするのであつて、そこに美を見出そうとするのだから、美學的にいふと逆なことをやるわけである。かういふ工藝上の動機は、非常に日本的なことだと思ふ。
さういふ精神、感覺が、だんだんに堕落して来て、わびとかさびとか、ひねくれたものになつてしまつた。平凡な、單純な、自然な美といふものが、だんだんに悪い趣味に落ちて来たのである。平凡な健康が美が、すつかり忘れられてしまつたのである。
*
いま大都會にゐる人は、鳥の聲を聞くこともなく、電車や自動車の騒音ばかり聞いてゐる。音樂のはうに不協和音といふものがあるが、さういふものも、さいういふ生活から生まれる。不協和音の方が和音より眞實樂しく耳に聞こえて来るやうになるのであつて、頭腦の巧みさではない。耳がさうなるのだ。」
-----
雜談 p166〜
「思想の混亂といふことがいはれてゐるが、もつと恐ろしいことは、視覺や廳覺の混亂である。美しさがわかる感覺の衰へたことである。思想の混亂もただ思想によつて秩序づけようとする、安定させようとする。それは思想の上に思想を築く事で、いよいよ思想は混亂するだけだ。根本にある視覺や廳覺の混亂に気付かなければ駄目な事です。
昔の日本人は、支那や朝鮮の茶碗を非常に愛した。これらは向かうの職人がただの日用の茶碗として、美などといふことを考へずに作つたものである。しかし、そこに美しさを發見した。
かうして自然な平凡ななんでもないものに美を發見したした日本人は、今度は發見しただけでは濟まされなくなって、自分で作らうとした。自分の手で新しく非常に平凡な自然な茶碗を作らうとした。それが楽茶碗である。つまりこの楽茶碗はたいへん批評的なもので、ただの職人の茶碗ではない。かういふ工藝家は世界中にいない、面白い日本の特質である。日本の陶器の技術は、支那、朝鮮から来た。日本の獨創ではない。みんな眞似である。ただこの楽茶碗だけは日本の獨創の藝術品なのである。これはわざわざ不恰好な汚いものを作る、つまりわざわざ自然にするのであつて、そこに美を見出そうとするのだから、美學的にいふと逆なことをやるわけである。かういふ工藝上の動機は、非常に日本的なことだと思ふ。
さういふ精神、感覺が、だんだんに堕落して来て、わびとかさびとか、ひねくれたものになつてしまつた。平凡な、單純な、自然な美といふものが、だんだんに悪い趣味に落ちて来たのである。平凡な健康が美が、すつかり忘れられてしまつたのである。
*
いま大都會にゐる人は、鳥の聲を聞くこともなく、電車や自動車の騒音ばかり聞いてゐる。音樂のはうに不協和音といふものがあるが、さういふものも、さいういふ生活から生まれる。不協和音の方が和音より眞實樂しく耳に聞こえて来るやうになるのであつて、頭腦の巧みさではない。耳がさうなるのだ。」
-----
posted by Fukutake at 07:52| 日記