「英文対訳 世界を動かした名言」 J.B.シンプソン 隈部まち子・訳
講談社+α文庫
「ジョン・ギボンズ
日本人は、工場の現場から経営者を調達し、われわれは、ロー・スクールから調達する。」(They recruit their managers from the factory floor: we get ours out of law schools.)
「ゴードン・マクレンドン
(ベースボール試合を“作りごとにする”ことについて)真夏の暑い午後に一〇万人の人を楽しませて、何が悪い?」( What harm is there in making 100,000 people happy on a hot summer afternoon? )
「ジョー・ディマジオ
野球選手は常にハングリーでなけりゃ、大リーグにはなれない。金持ちの坊やが今まで誰ひとり大リーガーになれなかったのは、ハングリーがないからさ。」( A ball player’s got to be kept to become a big leaguer. That’s why no boy from a rich family ever made the big leagues.)
「ドワイト・D・アイゼンハワァー
(ホワイトハウスを去ってからのゴルフの成績はどうかときかれて)私に勝つ人が前より多くなった。」( A lot more people beat me now.)
「ジョージ・プリムトン
(フットボールの本がベースボールやテニス、ゴルフに比べて売れない理由について)スポーツで使われているボールが小さければ小さいほど、本は売れる。」( The smaller the ball used in the sport, the better the book.)
「フェデリコ・フェリーニ
芸術はいつも自伝的ですよ。真珠はカキの自伝なのです。」( All art is autobio
graphical ; the pearl is the oyster’s autobiography.)
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金閣寺
「室町の美學 −−金閣寺」 「三島由紀夫全集31」 新潮社 1975年
p560〜
「「金閣寺」を書くに當つて、京都に取材に出かけたが、金閣寺自體からは面談・取材を斷わられたので、ただ情景を見るだけにとどめ、僧坊生活については、同じ臨済宗ながら異派の妙心寺派の妙心寺の厚意によつて、靈雲院に一泊をゆるされた。
ここで生まれてはじめて、わたしは禪寺の生活を瞥見したのであるが、小説「金閣寺」を書くにつけても、私は禪の研究からこの題材に興味を持つにいたつたのではなく、題材とその人間心理への興味から、背景である禪宗を研究せざるをえなかつたのであつて、研究といふ名にも値ひせぬ淺い取材である。
しかし、靈雲院の手あついもてなしには、思ひ出すだに、感謝に堪へない。今も忘れないのは、松で焚いたといふ御飯の美味しさであつて、私は生まれてからあんなに美味しい米の飯を喰べたことがない。
座禪のほうは足が痛いから敬遠して、若い僧の生活一般を見せてもらつたが、一つの發見は、京都では禪寺がなほ一種の精神衛生上の療養所のやうに見なされてゐることで、その僧のなかではかなり年配の、結婚生活に破れたノイローゼ患者が、ここへ見習いに入つて一ヶ月で、心機一轉したと喜んでゐた。
そんな一泊だけで禪寺の生活を書くのは、天をおそれぬ振舞だといふ人もあるだらうが、エミール・ゾラも「ナナ」を書くために、オペラ座の女優と一回飯を喰べただけださうだ。
主人公のク里に近い舞鶴方面へも旅をしたが、あちらの北の海岸の荒涼たる景色は心に深く刻まれ、主人公が放火を決意する重要な心象風景として用ひた。
右のやうな事情で、金閣寺自體について語る材料がないのは残念であるが、金閣寺周邊はそれこそ舐めるやうにスケッチして歩いた。某氏が提供された精密な資料に基いて、モデルの青年の生活の足跡を隈なく實地に當り、又、その生活の蓋然的なひろがりの上にあるもの、つまり小説の挿話として挿入して不自然でないもの、その場所、その背景を、丹念にスケッチした。或る佛教大學のスケッチもその一つである。
金閣寺は一人の見物人として、見られるかぎりのところを見、入れるかぎりのところへ入つて、使へさうな場所をことごとくノオトに採集した。私の取材は、さういふ意味では、植物採集や昆蟲採集に似てゐる。
南禪寺の近くの宿に泊まつてゐたが、輕いバーベルを買ひ入れ、古い縁側でこれを持ち上げてゐた。刻苦精勵、骨身を削り、病氣にでもなつて作品を書けば、それだけで敬重する日本文壇の氣風に反撥を感じてゐたから、「金閣寺」を書き出す前と、擱筆後とに體重をはかり、作品のためには肉體的には一グラムも消耗してゐないことを證明して、快哉を叫んだ。…」
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メイキング「金閣寺」
p560〜
「「金閣寺」を書くに當つて、京都に取材に出かけたが、金閣寺自體からは面談・取材を斷わられたので、ただ情景を見るだけにとどめ、僧坊生活については、同じ臨済宗ながら異派の妙心寺派の妙心寺の厚意によつて、靈雲院に一泊をゆるされた。
ここで生まれてはじめて、わたしは禪寺の生活を瞥見したのであるが、小説「金閣寺」を書くにつけても、私は禪の研究からこの題材に興味を持つにいたつたのではなく、題材とその人間心理への興味から、背景である禪宗を研究せざるをえなかつたのであつて、研究といふ名にも値ひせぬ淺い取材である。
しかし、靈雲院の手あついもてなしには、思ひ出すだに、感謝に堪へない。今も忘れないのは、松で焚いたといふ御飯の美味しさであつて、私は生まれてからあんなに美味しい米の飯を喰べたことがない。
座禪のほうは足が痛いから敬遠して、若い僧の生活一般を見せてもらつたが、一つの發見は、京都では禪寺がなほ一種の精神衛生上の療養所のやうに見なされてゐることで、その僧のなかではかなり年配の、結婚生活に破れたノイローゼ患者が、ここへ見習いに入つて一ヶ月で、心機一轉したと喜んでゐた。
そんな一泊だけで禪寺の生活を書くのは、天をおそれぬ振舞だといふ人もあるだらうが、エミール・ゾラも「ナナ」を書くために、オペラ座の女優と一回飯を喰べただけださうだ。
主人公のク里に近い舞鶴方面へも旅をしたが、あちらの北の海岸の荒涼たる景色は心に深く刻まれ、主人公が放火を決意する重要な心象風景として用ひた。
右のやうな事情で、金閣寺自體について語る材料がないのは残念であるが、金閣寺周邊はそれこそ舐めるやうにスケッチして歩いた。某氏が提供された精密な資料に基いて、モデルの青年の生活の足跡を隈なく實地に當り、又、その生活の蓋然的なひろがりの上にあるもの、つまり小説の挿話として挿入して不自然でないもの、その場所、その背景を、丹念にスケッチした。或る佛教大學のスケッチもその一つである。
金閣寺は一人の見物人として、見られるかぎりのところを見、入れるかぎりのところへ入つて、使へさうな場所をことごとくノオトに採集した。私の取材は、さういふ意味では、植物採集や昆蟲採集に似てゐる。
南禪寺の近くの宿に泊まつてゐたが、輕いバーベルを買ひ入れ、古い縁側でこれを持ち上げてゐた。刻苦精勵、骨身を削り、病氣にでもなつて作品を書けば、それだけで敬重する日本文壇の氣風に反撥を感じてゐたから、「金閣寺」を書き出す前と、擱筆後とに體重をはかり、作品のためには肉體的には一グラムも消耗してゐないことを證明して、快哉を叫んだ。…」
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メイキング「金閣寺」
posted by Fukutake at 10:42| 日記