2021年10月28日

箴言、ひとを刺す

「人生の知恵 −省察と箴言」 ラ・ロシュフコー 吉川浩(訳) 角川文庫

p70〜
 「われわれの憎しみが強すぎると、そのためにかえって、憎い相手の後手をとることになる。

われわれは、自己愛の多寡に比例して、自分の幸不幸を感じる。

たいていの女の賢しさは、理性よりも、狂気を強めるのに役立つ。

偉人になるためには、自分の運を全部使い切れなくてはならぬ。

いざというときにこそ、自分が知られるのだ。他人にも、いなそれ以上に、自分自身にも。

女の精神や心情に、法則などあり得ようはずがない。必ず体質がからんでくる。

われわれは、自分の意見に与する人でないと、良識の人とは考えぬ。

われわれに小細工を弄する奴らが、あんなに癪にさわるのは、彼らが、われわれより上手のつもりでいるからだ。

欠点のなかには、上手に使われて、美徳より光り輝くものもある。

われわれが心から誉めるのは、相手がこちらを認めているときに限る。

器量の小さい人は、こまごましたことがひどく気になるものだ。器量の大きい人は、全てを知り尽くして、しかも、平気である。

他人から強いられる無理よりも、自分で自分に強いる無理の方が、苦しいものだ。」

----
たしかに。
posted by Fukutake at 08:05| 日記

漱石の日常

「私の「漱石」と「龍之介」」内田百問 ちくま文庫 1993年

漱石先生の思ひ出拾遺 p46〜

 「漱石先生が相撲を見に行くのと、謡をうたふのを私は好かなかつた。
 しかし、お止めなさいなどと云い出せる柄でもないので、黙つて腹の中で、自分の崇拝する先生らしくもないと不満に思つた。

 寒い日に牛込柳町から先生のお宅の方に歩いていくと道端で先生に出くわした。毛皮の襟巻のついたマントを着て、旦那様のような顔をしてゐた。どちらへ御出かけですかと聞くと、相撲だよと云われたので、多くを談らないと云う気がして、お辞儀だけして別かれた。

 木曜日の晩の漱石山房に滝田樗牛氏が来ると、先生と二人で相撲の話ばかりするのでいらいらした。相撲が非常にきらひだつたのは、さう云う事が反撥した為でもあるらしい。先生が亡くなられてから二昔過ぎたこの頃では、新聞で相撲の噂を読むのがきらひでもなくなった。
 謡は文学者のたづさはる事ではないと、当時の若い判断でさう思ひ込んだ儘、二十年後の今でも矢つ張りさう思つてゐる。いつぞや「新潮」の座談会の席上で、宝生新氏にお目にかかった時、漱石先生の謡は上手でしたかと尋ねたら、それ程でもないと云う話であつた。仮に等級をつけるとすると、何段だとか、有級者とか、さう云う程度になつて居られましたかと聞いたら、そこまでも行かないと云う事だつたので少し安心した。

 木曜日でない日の昼間に先生の許に行つて、門から玄関に近づくと、竹垣の向こうの書斎から謡の声が聞こえて来た。つるつるした、油を塗つた様な声であつた。それが私の電鈴を押した途端にぱたつと止んで、中途で切れたまま静まり返つた。女中がお通り下さいと云うので、先生の前に出て、お辞儀をして顔を見たら、いつもの通りのこはい顔であった。」

-----
謡曲好きの漱石

posted by Fukutake at 08:02| 日記

2021年10月27日

昭和十年代の浅草

「波」monthly magazine 2021年1月 新潮社

川本三郎「荷風の昭和 32回」より p128〜

 「浅草の軽演劇、とりわけオペラ館の舞台に惹かれた荷風は随筆「浅草公園の興行物を見て」を書き、ここでもオペラ館の演し物を絶讃する。
「曲馬の新舞踏に興味をおぼえたので、その夜からわたくしは他の興行物も一通り見歩く気になって、交番の傍に在るオペラ館に這入った。演劇とルヴューとが交(かわ)る々々二幕ずつ演じられる。わたくしは初め何の考えもなく、即ち何の期待も予想もなく這入って見たのであるが、其演劇を見て非常に感服した。
 荷風が見たのは「残された女」という一幕物。郊外の貧しい借屋に住む一家の物語。兄はダンスホールの恋人がいて結婚しようとしているが、母がこれを許さない。
 父は職を失っている。貧しい家の家計を妹のわずかな給料が支えている。ところが、これは、兄と恋人のダンサーがひそかに妹へ送っていた金だった。やがて兄に召集令状が来る。母、妹、それに兄の恋人、三人の残された女性がそれぞれの思いを抱えて、その出征を見送る。日中戦争下らしい人情劇である。

 荷風はこれに感動した。おそらく浅草の小さな劇場で庶民と共にこれを見たからいっそうの感動があったのだろう。
 高見順は雑誌「文芸」の昭和十四年から翌十五年にかけて連載した、浅草を舞台にした長編小説『如何なる星の下に』のなかで、作者自身を思わせる「私」が、東京の「場末」四つ木に住む貧しいブリキ職人の小学生の娘、豊田正子が書いた作文の映画化作品、山本嘉次郎監督、高峰秀子主演の「綴方教室」(一九三八年)を、丸の内の映画館で見た時と浅草で見た時では、観客の反応が正反対だったと書いている。

 徳川夢声演じるブリキ職人の父親が無一文で正月を迎えなければならないと暴れる場面で、丸の内では観客がその様子が可笑しいと笑った。学生や知的階級の観客には貧しさが理解出来なかったからである。それに対し、浅草の観客は貧しさを知っているから同じ場面で泣いた。「私」は、当然、浅草の観客に心を寄せる。
 荷風もまたオペラ館の人情もの舞台に心動かされたのは同じような心情からではなかったか。」

----

posted by Fukutake at 10:29| 日記