「橘木俊詔(最終講義)」 経済セミナー 2014年10・11号(N680)より抜粋。
P58〜
「…(9)結果の平等か、機会の平等か:
結果と機会とは、前者が人々の経済行動の成果である所得や資産の分配に注目するのに対して、後者は経済行動をする前の教育や仕事に就くときに状態(すなわち参加と差別)に注目するものである。
リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム、コミュニズムなどという政治哲学、思想の勉強をして、自分なりの好みの思想に到達した。それはロールズ流のリベラリズムであった。もとより哲学や思想は自分の専門ではないので、古典書を最初から読了することはさほどなく、古典の拾い読み、入門書や解説書に頼ることが多かった。
(10)社会保障制度:
国民に安心を与える手段として、そして所得再配分政策の手段として、社会保障制度の機能と役割を勉強することとなった。日本は家族と企業(特に大企業)が福祉の担い手だったので、国家が福祉にコミットする必要のない、低福祉・低負担の国でよかった。しかし家族の絆が弱くなり、企業の支払い能力が低下し、地域コミュニティの機能しない現今、国民の福祉をどうにかして確保せねばならない時代に入っている。
選択肢は2つあって、1つはアメリカ流の自立、もう1つはヨーロッパ流の福祉国家への道である。私自身は後者が好みであるが、日本ではその声は弱く、いつも少数派と感じている。なぜ日本人が福祉国家を好まないかといえば、日本人は福祉のタダ乗りをする人が多いと信じられているからである。さらに、福祉を充実すると民間経済の活性化にマイナスと信じる人が多いからである。
もう1つは、社会保障制度の財源として税(特に消費税)を中心とすべし、さらに企業は福祉提供から撤退してもよい、と20年前から主張してきた。まだ支持は少ないがその方向に走り出している感がある。その証拠を示せば、企業年金制度の運営がうまくいかなくなっていることと、消費税率のアップが進行中であることである。…」
(橘木教授が2014年3月15日に同志社大学にておこなった最終講義)
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漱石の絶筆
「漱石の漢詩」 和田利男 文春学藝ライブラリー 2016年
p174〜
「四十四
真蹤寂寞 杳として尋ね難し 真蹤寂寞杳難尋
虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す 欲抱虚懐歩古今
碧水碧山 何ぞ我有らん 碧水碧山何有我
蓋天蓋地 是れ無心 蓋天蓋地是無心
依稀たる暮色 月 草を離れ 依稀暮色月離草
錯落たる秋声 風 林に在り 錯落秋声風在林
眼耳双ながら忘れ 身も亦失ひ 眼耳双忘身亦失
空中 独り唱ふ 白雲吟 空中独唱白雲吟
大正五年十一月二十日夜の作。翌々日から漱石は死の病床に就いた。
松岡氏は「虚懐を抱かんと欲して、古今を歩む」と読み、「自分は長い事、己をむなしくせんがため古今の書を繙き、古今の道に参じて来たものだ。」と訳しておられるが、「欲」は一句全体にかかると見るのが妥当であろう。
吉川氏は「虚懐を抱いて古今に歩まんと欲す」とよんでおられる。「虚懐」に「私のない心」と注するのみで、一句の解釈は示していない。
私の旧著も吉川氏と同じ読みで、「せめて我欲を去った虚しい心で生涯を終わりたいものだと考える。」と訳しておいた。「古今に歩む」というのは歴史の中に足跡を印するという意味であるから、単に「生涯を終える」というのとはニュアンスの違う表現なのであるが、漱石の気持ちとしては、それほど胸を張った揚言だったのではなく、やはり静かに自分の心に語りかけていることばであろうと考えて、そのような訳を試みたわけである。」
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漱石最後の漢詩
p174〜
「四十四
真蹤寂寞 杳として尋ね難し 真蹤寂寞杳難尋
虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す 欲抱虚懐歩古今
碧水碧山 何ぞ我有らん 碧水碧山何有我
蓋天蓋地 是れ無心 蓋天蓋地是無心
依稀たる暮色 月 草を離れ 依稀暮色月離草
錯落たる秋声 風 林に在り 錯落秋声風在林
眼耳双ながら忘れ 身も亦失ひ 眼耳双忘身亦失
空中 独り唱ふ 白雲吟 空中独唱白雲吟
大正五年十一月二十日夜の作。翌々日から漱石は死の病床に就いた。
松岡氏は「虚懐を抱かんと欲して、古今を歩む」と読み、「自分は長い事、己をむなしくせんがため古今の書を繙き、古今の道に参じて来たものだ。」と訳しておられるが、「欲」は一句全体にかかると見るのが妥当であろう。
吉川氏は「虚懐を抱いて古今に歩まんと欲す」とよんでおられる。「虚懐」に「私のない心」と注するのみで、一句の解釈は示していない。
私の旧著も吉川氏と同じ読みで、「せめて我欲を去った虚しい心で生涯を終わりたいものだと考える。」と訳しておいた。「古今に歩む」というのは歴史の中に足跡を印するという意味であるから、単に「生涯を終える」というのとはニュアンスの違う表現なのであるが、漱石の気持ちとしては、それほど胸を張った揚言だったのではなく、やはり静かに自分の心に語りかけていることばであろうと考えて、そのような訳を試みたわけである。」
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漱石最後の漢詩
posted by Fukutake at 07:45| 日記