「教科書では読めない 中国史」 冨谷至 小学館 2006年
「帝政中国の鬼子 宦官
中国2000年の帝政の歴史。そこには名流貴族をしのぎ政治を動かしてきた影の権力者 宦官がいた。…
宦官の起源は、最初は捕虜に対する去勢、刑罰としての宮刑から始まる。族外の敵が反抗するのを防止するための措置が、同族内部の犯罪者に対する処罰へと移っていったのだろう。かかる去勢、宮刑は、春秋時代、否、それ以前から存在していたのだが、しだいに宦官の供給源が変化していく。とくに秦漢時代以降、つまり統一帝国が成立したあとには、宦官のなかで刑人や捕虜の占める割合は少なくなり、大半が自分から願って去勢する、もしくは親がわが子を去勢するという。いわゆる自営宦官であった。
自ら進んで宦官になりたいなどといった信じがたいことが起こるのかと思われるだろう。しかし、時代を追って、自営宦官が引きも切らず増加していったこと、これは事実である。なぜそのようなことが出来(しゅったい)するのか。そこには、中国の皇帝政治と官僚制が深くかかわっている。
宦官が担う職務は、秦以後、皇帝制度が成立してからは、宮廷にいて皇帝の身の回りの世話、皇帝の私的秘書としての務めである。ただし、秘書官といっても神格化された皇帝に仕える奉仕者は、神に仕えるものである以上、ただの人間ではなく、神と人との中間に位置する存在であることが求められる。別の見方からすれば、人間である官僚と皇帝の間に、その媒介者をおくことで、皇帝の神秘的権威を保持することができる。
またこれは、民俗学の分野で指摘されていることで、中国の宦官にそのままあてはまるかどうかは、いま少し検討が必要だが、次のような見解も捨てがたい。身に傷害、欠陥、疾病などがそなわり、それゆえに共同体から離脱した異人は、世俗から忌避され、それゆえ、世俗を超越することで逆に神聖なものへとその性格が転化する。傷害は聖痕(スティグマ)となり、神に遣わされたもの、神聖を背負うものとして聖なる存在となる。かかるハンディを負い賤形に身をやつす存在は、神と人間とのふたつにまたがる存在、神と人間を媒介するものとなる。
そういった観念的な面の他に、宦官は子孫、眷属をもたない。おのが一族の利を考えて行動する外戚とはちがい、一代限りの宦官は、皇帝に対する忠誠度が強く、それゆえ、皇帝は官僚や外戚よりも宦をいっそう重宝するのである。…」
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望んで去勢する人々。