「悪について」 エーリッヒ・フロム 鈴木重吉 訳 紀伊国屋書店
善の選択 p201〜
「われわれはこれまで人間の心情と、それが善や悪に走る傾向を検討してきた。 ここで、これまでの問題に対する解答を要約することは適切であると考える。
悪ということは特別に<人間的>現象である。悪とは人間以前の状態に退行し、特 に人間的なるもの、すなわち理性、愛、自由を排除しようとすることである。しかし人 間は人間であると同時に悲劇的でもある。たとえ人間が最も原始的な経験形態へ退 行しても、人間は人間であることを中止することはできない。それゆえに人間はひとつ の解決法として、悪に満足するこは決してできない。動物は悪になりえない。動物は 生きるために根源的に必要な生来の衝動にしたがって行動する。悪ということは、人 間的なものの領域をこえて、非人間的な領域へ移ろうとすることであるが、人間は 「神」になり得ないと同様、動物にもなりえないから、悪は非常に人間的なものなので ある。<<悪はヒューマンなるものの重荷を逃れようとする悲劇的な試みにおいて、 自己を見失うことである>>。かくて悪のもつポテンシャルは悪に対するあらゆる可 能性を想像せしめると共に、それに基づく欲望と行動を起させ、悪の妄想を育てる想 像力を人間に付与するが故に、ますます増大してゆくのである。ここで示されている 善と悪についての観念は、本質的にはスピノザが示したものと同じである。「そこで私 は以下において、善とはわれわれがわれわれの形成する人間性の形に、ますます近 く手段になることを、われわれが確知するところのものであると解するであろう。これ に反して悪とはわれわれがその型に一致するようになるのに妨げとなることを、われ われが確知するところのものであると解するであろう」。スピノザによれば、論理的に は、「馬が人間に変化するなら、それは昆虫に変化した場合と同様に馬でなくなってし まう」。善はわれわれの存在をわれわれの本質へ限りなく近接させ、悪はその存在と 本質とをたえずひきはなすことになる。...
実際、われわれは善を選択するためには、自覚しうるようにならなければならない ー しかし万一、われわれが他人の不幸に、他人の親しい眼差しに、小鳥の歌に、 緑の草木に感動する力を喪失してしまったらならば、いかなる自覚をもってしても、わ れわれは救済されえないだろう。もし人が生に無関心となれば、その人は善を選択し うる希望はもはやないのである。まったくこのような時には、その人の心はあまりに硬 化してしまっているがために、その人の「生」は終わりを告げていることになろう。もし このような事態が、全人類ないしその最強の成員におこるようなことになれば、人類 の生命はその最大の約束をはたすべきまさにその瞬間に絶滅するであろう。」
-----
人間=善の選択
大地 パール・バック
「大地(一)」 パール・バック 新居格訳 中野好夫補訳 新潮文庫
(貧しい農民の王龍(ワンロン)が地主の女奴隷を妻に迎え、子を妊娠した)
p40〜
「...彼女は、食卓の上に箸を順序よくそろえてから、彼を見つめ、その後で言った。 「わたしが、あの家(地主)に行くときは、子供抱いて行きますよ。赤い上着を着せ、赤 い花模様の褲子(クーツ(ズボン))をはかせ、前に金色のちっちゃい仏様をぬいつけ た帽子をかぶせ、虎の顔をした靴をはかせてね。わたしも新しい靴をはいて、新しい 黒繻子の着物を着て、わたしが今までに働いていた台所にも、大奥様が阿片を吸っ ている大広間にも行って、わたしと、わたしの子をみんなに見せるんです」 彼は、今までこんなに多くの言葉を、彼女から聞いたことはなかった。言葉はまだ るっこいが、しっかりと、よどみなく口から出る。彼は、今にして、彼女が前からこういう ことをひとりで計画していたのだと知った。彼と一緒に畑で働いていたときにも、それ を考えぬいていたのだ。なんと、たまげた女だ。子供のことなど、まず頭に置いていな いみたいに、来る日も来る日も、静かに働いているんだと思っていたのに。彼女は、 子供に盛装させ、そしてその子の母として、新しい着物を着こんだ姿までも、すでに夢 に描いていたんだ。この時ばかりは、王龍のほうが口がきけなかった。彼は親指と人 差し指で煙草を懸命にまるめていたが、やがて、落とした煙管を拾い上げ、煙草をつ めた。
とうとう彼は、つっけんどんを装って言った。
「それじゃ、お前、金がいるだろう」 「銀貨を三枚くだされば ー」彼女はおずおずと言った。「大金ですけど、十分勘定して みたんだし、一銭だって無駄にしませんから。呉服屋にも、ただの一インチだってごま かされないようにしますから」 王龍は腹巻を探った。一昨日、彼は西の畑の葦を、町の市場で一台半売ったので、 彼女がほしがるよりも少しよけいに持っていた。彼は三枚の銀貨を食卓に置いた。そ れから、ややためらったあとで、もう一枚出した。これはそのうち茶館へ行って、博打 をしたくなったときの用意に持っていたのだが、彼は博打場でせっかくの銀貨をとられ るのがこわいので、サイコロの転がるのを見物するだけだった。町に出ても、時間の ゆとりがあると、きまって講釈師の掛小屋で講釈を聞いた。そこでは昔の話が聞ける し、鉢が回ってきたときに、一銭入れればいいのだ。 「その銀貨も取っておけよ」彼はそう言って、その合間に、口で吹いて、こよりを燃えた たせ、煙草に火をつけた。「絹の端ぎれで着物を作ってやるさ。何せ、初めての子だ からな」 彼女は、すぐには取らなかった。無表情な顔でしばらく眺めていたが、やがてなかば 囁くように言った。
「わたしが銀貨を手にするなんて、これが初めてなんですよ」
-----
(貧しい農民の王龍(ワンロン)が地主の女奴隷を妻に迎え、子を妊娠した)
p40〜
「...彼女は、食卓の上に箸を順序よくそろえてから、彼を見つめ、その後で言った。 「わたしが、あの家(地主)に行くときは、子供抱いて行きますよ。赤い上着を着せ、赤 い花模様の褲子(クーツ(ズボン))をはかせ、前に金色のちっちゃい仏様をぬいつけ た帽子をかぶせ、虎の顔をした靴をはかせてね。わたしも新しい靴をはいて、新しい 黒繻子の着物を着て、わたしが今までに働いていた台所にも、大奥様が阿片を吸っ ている大広間にも行って、わたしと、わたしの子をみんなに見せるんです」 彼は、今までこんなに多くの言葉を、彼女から聞いたことはなかった。言葉はまだ るっこいが、しっかりと、よどみなく口から出る。彼は、今にして、彼女が前からこういう ことをひとりで計画していたのだと知った。彼と一緒に畑で働いていたときにも、それ を考えぬいていたのだ。なんと、たまげた女だ。子供のことなど、まず頭に置いていな いみたいに、来る日も来る日も、静かに働いているんだと思っていたのに。彼女は、 子供に盛装させ、そしてその子の母として、新しい着物を着こんだ姿までも、すでに夢 に描いていたんだ。この時ばかりは、王龍のほうが口がきけなかった。彼は親指と人 差し指で煙草を懸命にまるめていたが、やがて、落とした煙管を拾い上げ、煙草をつ めた。
とうとう彼は、つっけんどんを装って言った。
「それじゃ、お前、金がいるだろう」 「銀貨を三枚くだされば ー」彼女はおずおずと言った。「大金ですけど、十分勘定して みたんだし、一銭だって無駄にしませんから。呉服屋にも、ただの一インチだってごま かされないようにしますから」 王龍は腹巻を探った。一昨日、彼は西の畑の葦を、町の市場で一台半売ったので、 彼女がほしがるよりも少しよけいに持っていた。彼は三枚の銀貨を食卓に置いた。そ れから、ややためらったあとで、もう一枚出した。これはそのうち茶館へ行って、博打 をしたくなったときの用意に持っていたのだが、彼は博打場でせっかくの銀貨をとられ るのがこわいので、サイコロの転がるのを見物するだけだった。町に出ても、時間の ゆとりがあると、きまって講釈師の掛小屋で講釈を聞いた。そこでは昔の話が聞ける し、鉢が回ってきたときに、一銭入れればいいのだ。 「その銀貨も取っておけよ」彼はそう言って、その合間に、口で吹いて、こよりを燃えた たせ、煙草に火をつけた。「絹の端ぎれで着物を作ってやるさ。何せ、初めての子だ からな」 彼女は、すぐには取らなかった。無表情な顔でしばらく眺めていたが、やがてなかば 囁くように言った。
「わたしが銀貨を手にするなんて、これが初めてなんですよ」
-----
posted by Fukutake at 12:23| 日記