2021年09月09日

誣告の証明

「ソクラテスの弁明・クリトン」 プラトン 久保勉(訳) 岩波文庫

p26〜
「...こちらへ出たまえ、メレトス*君、そうしていってくれたまえ、君が最も重きを置くの は、青年が出来得るかぎり善良になることなのだね、そうだろう? 「その通り。」それなら列席の諸君にいい給え、青年を善導する者は誰であるかを。君 はきっとそれを知っているに違いない。それが君にとって大切な事なのだから。実際 君は彼らを腐敗させる私という者を発見したといって、私をここに引出して、私を告発 するほどなのである。さあいってくれたまえ。善導者の名は誰であるかを、そうしてそ れを裁判官諸君に告げたまえ。メレトス君、君は黙り込んで一語も発することが出来 ないじゃないか。それは恥ずべきことであり、またこの問題が少しも君の関心を感ず るところではないといった私の主張の充分な証拠であると君は思わないのか。良き友 よ、さあいってくれたまえ、彼らを善導する者は誰であるか。
「国法だ。」
いやいや、私はこれを訊くのではない。優れたる友よ。何よりも先ず君のいう国なるも のを知っている人間は誰なのか。
「ソクラテス君、そこにいる裁判官諸君だ。」 メレトス君、何をいうのだ。この人達に青年を教育したり善導したりする力があるという のか。
「勿論。」
みんななのか、それともある者は善くある者は善くしないのか。
「みんなだ。」 ヘラの神にかけて、これは聴きものだ。すると善導者は随分沢山なわけだ。それでは もっと伺いたいが、ここの聴衆も彼らを善導するのか、それともしないのか。 「彼らも同じことだ。」
では、参政官は?
「参政官も同じこと。」 メレトス君、でも国民議会の議員たちは、青年を腐敗させているようなことはない か。それとも彼らも皆青年を善導するのか。
「彼らも同じこと。」 すると、私を除いたアテナイ人はみんな彼らを善良かつ有徳にするのに、ただ私ば かりが彼らを腐敗させるように見えるね。君の説はそうなのか。
「いかにも、私の説はその通りである。」 君の認められる通りなら、私は非常にみじめな人間だ。だが一つ答えてくれたまえ。 君は馬の場合にもまた同様だと思うのか。あらゆる人間が彼らをよく躾けて、ただ一 人だけが彼らをいけなくするのか。むしろその正反対に、彼らをよく躾けることが出来 るものはたった一人化もしくはごく少数の人すなわち調教師だけで、大多数の人が彼 らを取り扱ったり使用したりするとかえってそれを悪くするのではないのか。そうなって いるじゃないのか、ねえメレトス君、馬や他のあらゆる動物の場合には、君やアニュトス*君が反対するにしろ、それはきまりきっている。もし青年を腐敗させる者がたった 一人で、他はみんな彼らを善導する者だったら、彼らはさぞ幸福であろうのに。よろし い、メレトス君、これで充分にわかってしまった。君が決して青年の事を心配していな かったことは、また君がそのために私を告発した事柄について、自分では何も心配し ていなかった無頓着も、明らかに暴露してしまった。」

-----
メレトス*、アニュトス*:ソクラテス裁判の告発者
posted by Fukutake at 09:43| 日記

命を贈られる

「ユーコン先住民に学ぶ動物とともに暮らす方法」 山口未花子*(みかこ)

學士會会報 2021-v September No.950 より
p48〜

「動物を食べる ユーコン先住民と日本の都市に暮らす人とを動物の関係という点からみれば、やは り一番大きく異なっているのは自分たちの食べる肉や魚を自分で獲ることが当たり前 かどうかという点にあるだろう。ともに狩猟やキャンプへ行ったり、あるいは誰かが 獲った動物を丸ごともらって家で解体したりするような、生きた動物が肉へと変わる瞬 間が日常生活の中で普通に見られる。...

都市の食糧生産は自ずと動物の肥育と屠畜、流通を別々におこなう必要があり、他 方で動物とのふれあいといえばペットのように家族のように見なされる動物がほとん どであるようなシステムの中では、むしろ自然なことと思われる。 しかしそうした視点が日本(や世界)の都市環境の中で独自に生まれたものである ことは心に留めて置く必要がある。カナダ先住民たちだって決して動物を楽しんで殺 したり、むやみに動物を殺したりしているわけではない。そこには異なる価値観や動 物との関係がある。

贈与としての狩猟 例えばカナダ先住民の見方でいえば動物(の肉や皮)をお金でやり取りすることは 禁忌である。なぜなら、狩猟して肉を得るということは、動物が自分の身体を人間に 贈与することによってはじめて成立するからだ。 この「贈与」という行為について少し考えてみよう。贈り物をもらったら、それに感謝 して受け取り、使い、そして返礼する。これは様々な文化に広くみられるだけでなく人 間以外の存在との関係にも用いられてきた。例えば神様にお供えすることによってご 利益を引き出すこともこれに当てはまるだろう。 ユーコン先住民は動物からの贈与に対して儀礼によって返礼する。煙草を供えた り、感謝の言葉を述べる人もいるが、一番重要なのは動物の身体の一部、例えば気 管を木の枝に吊るすという再生儀礼である。そこに風が吹いてまだ残っている動物の スピリットが「息を吹き返し」血や肉を身に着けて元の動物に戻る。動物は死ぬのでは なく贈り物として古い肉体を人に贈り、自分はまた新しい肉体を手に入れる。つまり狩 猟して得た肉や皮は動物からの贈り物であり、もらった贈り物をお金で売るということ は、私たちの感覚からしてもよくないことである。だから動物からもらった肉や毛皮 は、お金で売るのではなく知人や家族に分配する。

一方で、動物が贈り物捧げようとしてやってきたのにこれを断ることもよくない。例え ば魚の「キャッチ&リリース」などもってのほかである。仲のよかった古老は一緒にみ ていたTVでそうした場面があると「これは動物と遊んでいることだ」と嘆いていた。」

「私は、狩猟をしながら動物がくれる美味しい肉を享受するとき、本当にその動物を愛 しく思う。それはかつてすべての人間が持っていた自然への共感ではないだろうか。」 (筆者* 北海道大学准教授)
----
自然とともに暮らす、アイヌや昔の捕鯨民のような人々とも通じる。
posted by Fukutake at 09:37| 日記