「小林秀雄全集 第十一巻」− 近代繪畫 − 新潮社版 平成十三年
近代繪畫 ピカソ p462〜
「ピカソは、十六歳の時、もう、バルセロナで個展を開いてゐるが、彼の異常に早熟な畫才は、美術學校の教師をしてゐた父親による、幼児期からの基本的な繪畫教育と、その後彼が自らに課した不斷の訓練とのうちに、育つたものである。サパルテスの傳えるところによれば(從つて、これは眞實と思はれるが)、ほんの數ヶ月の間に描いたデッザンで、一冬、アトリエのストーヴが焚けた、といふ。前にも觸れたが、私はピカソの映畫を見てゐて、魔術の様な彼の線描の動きを追ひながら、この話を思ひ出してゐた。十九歳の青年ピカソの念願は、パリの畫壇で、作品を世に問ふにあつたが、この時の彼の畫家としてのテクニックは、既に充分に成熟してゐたと見てよい。有名な「青の時代」が、その頃を機として始まるのであるが、明るい光と色の氾濫してゐたパリの畫壇に、この凡そ不似合な憂鬱な色調を持ち込んだといふのも、決して、青年畫家の、他に異ならんとする野心的な試みといふ様なものではなかつた。あり餘る才能を擁した彼には、さういふ種類の試みは、スペイン時代で濟んでゐたであらう。ピカソが、パリで、青い色を見附けたのには、恐らく、ゴッホがアルルで黄色を見附たのと同じ決定的な意味がある。但し、この意味は言葉にはならない。彼等の青も黄色も、外界の何處にもありはしなかつた。彼等が、めいめいの自我を覗き込んだ時に、その奥底に見えた色調であり、その色は、彼等には、遂に自分の運命にめぐり會つたといふ動かせない感覚だつたであらう。
「青の時代」の青についてのピカソ自身の言葉を、私は、ピカソ文獻のうちに見附ることは出来なかつたが、「彼は、この青について時々非常に昂奮して話したことがあつた。その話し方には、祈禱者の洩す吐息の様なものがあつた」とサバルテスは書いてゐる。アルルで最初の發作で入院したゴッホが、われに還って書いた手紙の中で、前年の夏、自分が達し得た高い黄色の色調の緊張を考へてみると、あゝいふ色調の表現に堪へた自分の精神は、世間並みの生活は許されぬ人間のものではなかつたか、と反省してゐる。ピカソの青のモノクロームにも、見る人の心を締めつける様な、無氣味な透明性と緊張とがある。ユングは、醫者としての彼に呼びおこす病理學的豫感を語つてゐる。それは無意識への下降であり、地上への別離であり、アルルカンを神とする冥府の色だ、と言ふ。この畫家は、もし心的障碍が起こるとすれば、これに精神分裂症的徴候で反應せざるを得ない人間のタイプに属すると言ふ。尋常な經驗的對象からいよいよ離脱して行くピカソの冥府遍歴の劇は、何時爆發を起こすかわからない。「彼は殻を破る偉大な人間だ。そして、その殻は、時として −− 脳髄なのである」と。」
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画家と色調との緊張関係
2021年09月08日
ピカソの青、ゴッホの黄色
posted by Fukutake at 09:56| 日記
相互理解は可能か?
「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年
わかってくれない p304〜
「不可逆の関係というものがある。AがBに等しければ、Bもまた Aに等しいというこ とができるけれども、AはBより大きいとすれば、BもまたAより大きいとは言えない。A はBのことがわかるけれども、BはかならずしもAを理解しないということがある。愛に ついても同じことがあると言わなければならない。
幼い子供たちの言ったり、したりしていることを、わたしたちは大体わかるように思 う。わたしたちにも幼い時代があったから、幼児の生活は経験して知っているというわ けだ。何のつもりであんなことをしているのか、言っているのか、その心の内側まで手 に取るようにわかるからだ。だから、思わず笑ったりしてしまう。かれらのかわいらしさ も、わたしたちのそのような理解に裏づけられていることが多分にあると言えるだろ う。もし理解できなかったら、腹立たしい感じになるかも知れない。だから、こちらが忙 しくている時や他のことに気を取られているときには、うるさいと叱ったりする。しかし これを逆に幼児の方から考えてみると、かれらには年長者と共通する経験はあまりな い。つまり年長者の言動は大部分が不可解なのである。すべては外側だけのもの で、その内側を理解するなどということはできない。ただ自分たちの欲求に反応してく れる仕方の相違を経験しているだけというところであろう。母親の反応と幼い兄弟の 反応とは違うし、犬や猫の反応はもっとちがう。母親は自分たちの要求に比較的よく 反応してくれるけれども、他の外物の反応はあんまりよくないという具合である。
この不可逆関係は、大人と子供、青年と少年との間にもあるし、大人のなかでも老 人と普通の大人の間にもある。青年は少年を理解するが、少年には青年はわからな い。大人は青年を知っているが、青年には大人は外側に立ちはだかっているだけの 存在で、内側の事はわからない。老人は年下の人たちの言動を、自分自身の経験か ら大体わかるように思う。しかし老人を理解してくれる者はもはやいない。その先にあ るものは死者だけだからだ。わたしたちは普通ただ外側の交渉だけですましている。 学校の生徒たちにとっては、先生はその顔や挙動、妙なくせ、よく叱ったりふざけたり することなどで、外側から捉えられているだけだろう。両親も他の大人もまた同じかも 知れない。いわゆる断絶とか距離とかについて、「わかってくれない」などと甘える前 に、自分たちもまた「わかっていない」のだと知ることが大切ではないか。」
(「思想に強くなること」より)
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理解は互いに不可逆関係
わかってくれない p304〜
「不可逆の関係というものがある。AがBに等しければ、Bもまた Aに等しいというこ とができるけれども、AはBより大きいとすれば、BもまたAより大きいとは言えない。A はBのことがわかるけれども、BはかならずしもAを理解しないということがある。愛に ついても同じことがあると言わなければならない。
幼い子供たちの言ったり、したりしていることを、わたしたちは大体わかるように思 う。わたしたちにも幼い時代があったから、幼児の生活は経験して知っているというわ けだ。何のつもりであんなことをしているのか、言っているのか、その心の内側まで手 に取るようにわかるからだ。だから、思わず笑ったりしてしまう。かれらのかわいらしさ も、わたしたちのそのような理解に裏づけられていることが多分にあると言えるだろ う。もし理解できなかったら、腹立たしい感じになるかも知れない。だから、こちらが忙 しくている時や他のことに気を取られているときには、うるさいと叱ったりする。しかし これを逆に幼児の方から考えてみると、かれらには年長者と共通する経験はあまりな い。つまり年長者の言動は大部分が不可解なのである。すべては外側だけのもの で、その内側を理解するなどということはできない。ただ自分たちの欲求に反応してく れる仕方の相違を経験しているだけというところであろう。母親の反応と幼い兄弟の 反応とは違うし、犬や猫の反応はもっとちがう。母親は自分たちの要求に比較的よく 反応してくれるけれども、他の外物の反応はあんまりよくないという具合である。
この不可逆関係は、大人と子供、青年と少年との間にもあるし、大人のなかでも老 人と普通の大人の間にもある。青年は少年を理解するが、少年には青年はわからな い。大人は青年を知っているが、青年には大人は外側に立ちはだかっているだけの 存在で、内側の事はわからない。老人は年下の人たちの言動を、自分自身の経験か ら大体わかるように思う。しかし老人を理解してくれる者はもはやいない。その先にあ るものは死者だけだからだ。わたしたちは普通ただ外側の交渉だけですましている。 学校の生徒たちにとっては、先生はその顔や挙動、妙なくせ、よく叱ったりふざけたり することなどで、外側から捉えられているだけだろう。両親も他の大人もまた同じかも 知れない。いわゆる断絶とか距離とかについて、「わかってくれない」などと甘える前 に、自分たちもまた「わかっていない」のだと知ることが大切ではないか。」
(「思想に強くなること」より)
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理解は互いに不可逆関係
posted by Fukutake at 09:49| 日記