「消された科学史」O.サックス S.J.グールドほか 渡辺政隆・大木奈保子訳
オリヴァー・サックス「暗点」より(その1) p169〜
「ヴォルフガング・ケーラーがゲッシュタルト心理学を創始するとことになった著作よ りも前に発表した論文の中で、科学、それもとくに心理学の分野で行われる早計な単 純化と体系化のことを述べている。それがいかにわれわれの目を閉ざし、科学を硬化 させ、生気に満ちた成長をさまたげるかということである。
「科学のどの分野にもそれぞれ、すぐには使えなかったり、いまひとつそぐわないも のをほとんど即座にしまい込んでしまう屋根裏部屋のようなものがある。 ...われわ れはつねに、価値ある素材の山を未使用のまま野積みにしており、科学の進歩を自 ら妨げているのだ」...
しかし、受容されている関係づけの枠組みに収まらない「特異例」を把握し、特異例 を受容することで心的スペースが確実に広がるにしても、それが実現されるにあたっ ては心の中にすでに根づいている信条や理論の基礎を突き崩すという、ひどい苦痛 と恐怖さえともなう過程を経てのことなのかもしれない。それが苦痛をともなうのは、 意識していようといまいと、われわれの精神生活は、ときにイデオロギーや妄想が力 を授けている理論によって支えられているからである。
科学と医学の歴史は、人々に特異例と心の深奥にひそむイデオロギーとの対決を 強いる。ある種ダーウィン流の意味での知的・個人的競争によって形をなしてきた部 分が大きい。したがって公開の論争や審理というかたちで行われる競争は、科学や 医学の進歩にとって不可欠なものといえる。そうした論争が開放的で率直なものであ れば、すみやかな解決と前進がもたらされることも可能である。 これが「公正」な科学であるが、実際には「醜悪」な科学も多々ある。その最も不幸 な一例は、天才少年の名をほしいままにした天体物理学者S・チャンドラセカールが 十代で星の縮退という驚くべき説を提唱したときに起こった出来事である。彼は、一 定の臨界質量以下の星は「白色矮星」になるが、それより質量が大きい星は「相対論 的な縮退」を起こし、重力崩壊によってどんどん押しつぶされてまったく異質な状態に 移行すると主張した。するとこれまで彼を支援し擁護していた偉大な理論天文学者A・ S・エディントンが、チャンドラセカールとその理論に対しはなはだしく辛辣な非難をあ びせかけ、その説の発展と発表を阻止しようとした。(のちに明らかになるように、エ ディントンの非難は、誤ったというよりむしろ妄想的な宇宙論を拠り所にしたものだっ た。それはいってみれば机上の空論であり、チャンドラセカールの理論が正しいとな れば崩壊する定めにあることを彼自身予感していたのである。)その結果、理論天文 学は三〇年間も足止めをくい、ブラックホールの理論(一九三〇年代初期のチャンド ラセカールの考察の一部をなしていた)が十分発展をみたのは一九六〇年代になっ てのことだった。
権威者からのこのような非難は、ときには悲惨きわまりない結果をもたらしうる。決 定的に重要な観察や考察が発表され広まるのを妨げるばかりでなく、標的とされた人 物を破滅させることもままあるのだ。」
----
2021年09月06日
権威者による保身の悲劇
posted by Fukutake at 08:33| 日記
昔の農作業の激しさ
「宮本常一著作集 21」 庶民の発見 未来社
山村に生きる p124〜
「東北地方の村々では、手あまりになった労働力を売ることが多かった。秋田県横 手の若勢(わかぜ)市などはその好例の一つである。...
若勢市に出ていくものたちの年齢は一五、一六歳から二〇歳までの間で、まだ若く て独立していない者たち二、三人が百姓姿のまま、春彼岸の横手の野菜市へ出て いって、野菜と同じように横手在の地主と奉公口の交渉をしてやとわれていったもの である。たぶん自ら野菜を背負って来て、そのまま町家へやとわれて住み込んだもの であろうが、後に奉公口が横手盆地全体にひろがっていったもののようである。しか しその賃金は決して高いものではなかった。横手付近の農家では、食事つきで春から 秋までの半年間が米三俵ないし五俵であったという。しかしこれはまだよいほうで、横 手の南部雄勝郡地方では、大正二年ごろ一五歳の若勢で、一八ヶ月働いて五円の 賃だった例がある。下駄・褌・蓑などは自分持ちであるから、そういう代金を払ったら 手取りはなかったという。大正四年ごろ一七歳で年間一〇円、一八歳で二〇円、昭和 の初めには年一五〇円が一般の相場であったというが、それでもこの労働市場はに ぎわったのである。
しかもその仕事ははげしかった。朝は四時に起きて、朝食前に田畑にでるか、堆肥 用の草刈りをする。冬は朝五時におきる。交通の不便な頃には主人一家の者が遠く へ行くというような時、箱ゾリにのせて何里もこれを押して行かなければならなかった という。朝飯前の仕事と言っても草二駄が一般の仕事であり、朝食後はまた昼までに 二駄を刈る。山の近いところはそれでも草場が近いからよいが、遠いところになると 馬を追うて二里も三里も歩かねばならなかった。荷馬車ができるようになってからは、 馬車の端に腰を下ろして行くこともできて往復はすこしらくになったが、それでも、往復 の距離が長いために、里山を持つ者に比して一時間も二時間も早く起きねばならな かった。夏季をこの地方ですごした者ならばみんな経験を持っているだろうが、夜一 時二時ごろになると、荷車が野の道を行く音をきく。それが静かな遠天にひびく。一台 ではない。二台、三台、五台とつづいていく。時にはよい声で歌をうたっていることが ある。オバコか、追分が多い。星空のもとをこうして荷車の行列はゆく。そして夜空の しらみはじめたころ車は草刈場につく。食事は荷車の上でたべる。馬をひいて草刈に いった頃は、歩きながら飯をたべたという話が記されているが、それは古い時代の働 く者の一般の姿であったとも言えるのである。
こうして草を荷車に一台分刈ると、またもとの道をもどって来る。昔は馬に一駄をつ け、若勢は一荷を背負ってもどって来たという。湿田での田起こしもはげしい労働で あった。この地方の水田は、膝を没するような深い者が少なくなかった。こうした市日 の労働を終えてもなお夜は夜なべがあり、自分のはく草鞋・足半(あしなか)の類は夜 闇につくらねばならなかった。」
----
想像を絶する激しい労働
山村に生きる p124〜
「東北地方の村々では、手あまりになった労働力を売ることが多かった。秋田県横 手の若勢(わかぜ)市などはその好例の一つである。...
若勢市に出ていくものたちの年齢は一五、一六歳から二〇歳までの間で、まだ若く て独立していない者たち二、三人が百姓姿のまま、春彼岸の横手の野菜市へ出て いって、野菜と同じように横手在の地主と奉公口の交渉をしてやとわれていったもの である。たぶん自ら野菜を背負って来て、そのまま町家へやとわれて住み込んだもの であろうが、後に奉公口が横手盆地全体にひろがっていったもののようである。しか しその賃金は決して高いものではなかった。横手付近の農家では、食事つきで春から 秋までの半年間が米三俵ないし五俵であったという。しかしこれはまだよいほうで、横 手の南部雄勝郡地方では、大正二年ごろ一五歳の若勢で、一八ヶ月働いて五円の 賃だった例がある。下駄・褌・蓑などは自分持ちであるから、そういう代金を払ったら 手取りはなかったという。大正四年ごろ一七歳で年間一〇円、一八歳で二〇円、昭和 の初めには年一五〇円が一般の相場であったというが、それでもこの労働市場はに ぎわったのである。
しかもその仕事ははげしかった。朝は四時に起きて、朝食前に田畑にでるか、堆肥 用の草刈りをする。冬は朝五時におきる。交通の不便な頃には主人一家の者が遠く へ行くというような時、箱ゾリにのせて何里もこれを押して行かなければならなかった という。朝飯前の仕事と言っても草二駄が一般の仕事であり、朝食後はまた昼までに 二駄を刈る。山の近いところはそれでも草場が近いからよいが、遠いところになると 馬を追うて二里も三里も歩かねばならなかった。荷馬車ができるようになってからは、 馬車の端に腰を下ろして行くこともできて往復はすこしらくになったが、それでも、往復 の距離が長いために、里山を持つ者に比して一時間も二時間も早く起きねばならな かった。夏季をこの地方ですごした者ならばみんな経験を持っているだろうが、夜一 時二時ごろになると、荷車が野の道を行く音をきく。それが静かな遠天にひびく。一台 ではない。二台、三台、五台とつづいていく。時にはよい声で歌をうたっていることが ある。オバコか、追分が多い。星空のもとをこうして荷車の行列はゆく。そして夜空の しらみはじめたころ車は草刈場につく。食事は荷車の上でたべる。馬をひいて草刈に いった頃は、歩きながら飯をたべたという話が記されているが、それは古い時代の働 く者の一般の姿であったとも言えるのである。
こうして草を荷車に一台分刈ると、またもとの道をもどって来る。昔は馬に一駄をつ け、若勢は一荷を背負ってもどって来たという。湿田での田起こしもはげしい労働で あった。この地方の水田は、膝を没するような深い者が少なくなかった。こうした市日 の労働を終えてもなお夜は夜なべがあり、自分のはく草鞋・足半(あしなか)の類は夜 闇につくらねばならなかった。」
----
想像を絶する激しい労働
posted by Fukutake at 08:28| 日記