「ルメイの蛮行には「動機」があった」ー鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白 な ぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)
『波』(新潮社刊)二〇二一/九月号 掲載記事より p53〜
「今から76年前、日本は焼け野原になった。終戦までのわずか1年足らずの間に、 アメリカ軍の無差別爆撃え46万人の命が奪われた。当時、日本の敗色は濃厚だっ た。それにもかかわらず、なぜ、あれほどまでに徹底した爆撃が行われたのか。 以前、「なぜ日本の文化財は戦禍を免れたのか」について取材したときから不思議 に思っていたことがある。アメリカ軍には、文化財保護を目的とした部隊があり、日本 の貴重な文化財保護を目的とした部隊があり、日本の貴重な文化財を空爆しないよ うに進言し、その保管場所を100ヶ所以上をリストにまとめ上げていた。敵国の文化 財に気を配れるほどの余裕があったのかと驚くとともに、なぜ人の命は大切にされな かったのかと大きな疑問が湧いてきたのだ。 その答えを知るための手がかりが、アメリカで見つかった。軍内部で行われた聞き 取り調査の音声記録である。証言者は、空軍将校246人。時間にして300時間を超 える。半世紀ぶりに封印が解かれた将校たちの「肉声テープ」を再生してみると、本音 や思惑が赤裸々に語られていた。
「空軍にとって戦争はすばらしいチャンスだった」「航空戦力のみで日本に勝利でき ると示す必要があった」「陸・海軍に空軍力を見せつける」...。 表向き「正義と人道」を掲げて戦っていたはずのアメリカ。だが、空軍将校が語って いたのは、それとは全く異なる空軍独自の目論みだった。当時、陸軍の傘下に置か れていた彼らは、無差別爆撃の舞台裏で、アメリカ軍内部で”独立する”という野望を 掲げていた。日本空爆の戦果は、それを実現するための足がかりだったのである。 空軍将校が遺した肉声をひもといていくと、東京大空襲の”首謀者”として悪名高い カーチス・ルメイ司令官も、空軍独立のための駒にすぎなかったこともわかってきた。 その背後には、無差別爆撃を周到に準備し実行を指示した空軍トップ、ヘンリー・ アーノルドの存在が浮かび上がる。そして、史上最悪とも言える日本への無差別爆撃 につながる空軍戦略を生みだしたのは、アーノルドが師と仰ぐ、一人の将校だった。 この男は、真珠湾攻撃を17年前から予想していたほどの卓越した戦略眼の持ち主 だったが、第二次世界大戦前に死んだ。だが、その思想は空軍内部で教養として今 も脈々と受け継がれているのだ。 一つ一つの証言がパズルのピースとなり、これまで謎に包まれていた日本への無 差別爆撃の内幕が徐々に明らかになっていく。思うような成果が出せずに、倒錯して いく空爆作戦。当初の戦略から逸脱する命令に、現場の指揮官も追い詰められて いった。 「私の手を握ってくれる人が誰もいなかった。結果を出さなければクビになる。それは それは孤独なものだった」(カーチス・ルメイ) 東京大空襲をはじめとする、日本空爆の知られざる真相迫った。」
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第一次大戦直後の1920年代から日本殲滅を誓った米国。まず移民禁止、中国支 援、様々な経済制裁を計画的に実施した。
子としての信義
「戦国策」 近藤光男 講談社学術文庫 2005年
術策編 p259〜
「七〇 人の子と為りて死せる父を欺かざるもの
秦が、道を韓・魏に借りて、斉を攻めた。斉の威王は、章子(しょうし)を将軍に任じて要撃させた。ところが章子は秦の軍と友誼を結んで宿営し、死者が繁く往来した。そうするうちに章子は、斉の旗印を秦のものに変えて、秦の軍勢のなかに紛れ込んだ。斉の間諜は、「章子は斉の全軍を挙げて秦の軍に入りました」と報告して来たが、威王は答えなかった。しばらく経つと、間諜からはまた、「章子が斉の兵を率いて秦に降りました」との報告が届いたが、威王は答えない。こんなことが三たびとなったので、係の役人はたまりかねて、「章子の敗戦を報告する者たちは、異口同音です。王はどうして別の将軍を派遣してお討たせにならないのですか」と申し上げたが、王は、「どうあろうと、彼が私に背いたのではないことは、はっきり分かっている。どうしてこんなことぐらいで彼を討とうか」と言った。しばらくして、斉軍が大勝利を収め、秦軍は大敗したとの知らせが入った。こうして、秦王は西方の藩屏の臣となって、斉に謝罪した。
側近の者が、「どうして、お分かりでありましたか」と尋ねるので、王は言った。「章子の母の啓は、章子の父に対して罪を犯したので、父親は妻を殺して、馬屋の床下に埋めたのだ。私は章子を将軍に任命するについて、彼を励ましてこう言った。『あなたの強さのことだから、兵を傷つけずに帰還することであろうが、その折にはきっとあなたの母を改葬してさしあげよう』と。すると、答えはこうであった。『臣は亡き母を改葬できないわけではございません。臣の母の啓は、臣の父に罪を犯し、臣の父はまだ許さぬうちに死んでしまいました。父の指示を得ないままで、母を改葬しては、亡き父を欺くことになります。そういうわけで、いたしませんでした』と。そもそも人の子として亡き父を欺かない者が、なんで人臣として生きている主君を欺こうか」。」
(一一六 斉上 威王3)
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信なくんば立たず
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術策編 p259〜
「七〇 人の子と為りて死せる父を欺かざるもの
秦が、道を韓・魏に借りて、斉を攻めた。斉の威王は、章子(しょうし)を将軍に任じて要撃させた。ところが章子は秦の軍と友誼を結んで宿営し、死者が繁く往来した。そうするうちに章子は、斉の旗印を秦のものに変えて、秦の軍勢のなかに紛れ込んだ。斉の間諜は、「章子は斉の全軍を挙げて秦の軍に入りました」と報告して来たが、威王は答えなかった。しばらく経つと、間諜からはまた、「章子が斉の兵を率いて秦に降りました」との報告が届いたが、威王は答えない。こんなことが三たびとなったので、係の役人はたまりかねて、「章子の敗戦を報告する者たちは、異口同音です。王はどうして別の将軍を派遣してお討たせにならないのですか」と申し上げたが、王は、「どうあろうと、彼が私に背いたのではないことは、はっきり分かっている。どうしてこんなことぐらいで彼を討とうか」と言った。しばらくして、斉軍が大勝利を収め、秦軍は大敗したとの知らせが入った。こうして、秦王は西方の藩屏の臣となって、斉に謝罪した。
側近の者が、「どうして、お分かりでありましたか」と尋ねるので、王は言った。「章子の母の啓は、章子の父に対して罪を犯したので、父親は妻を殺して、馬屋の床下に埋めたのだ。私は章子を将軍に任命するについて、彼を励ましてこう言った。『あなたの強さのことだから、兵を傷つけずに帰還することであろうが、その折にはきっとあなたの母を改葬してさしあげよう』と。すると、答えはこうであった。『臣は亡き母を改葬できないわけではございません。臣の母の啓は、臣の父に罪を犯し、臣の父はまだ許さぬうちに死んでしまいました。父の指示を得ないままで、母を改葬しては、亡き父を欺くことになります。そういうわけで、いたしませんでした』と。そもそも人の子として亡き父を欺かない者が、なんで人臣として生きている主君を欺こうか」。」
(一一六 斉上 威王3)
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posted by Fukutake at 10:49| 日記