「戦史の名言 −戦いに学ぶ処世訓−」 是本信義 PHP文庫
ナポレオン p148〜
「一七九六年三月初旬、陸軍中将ナポレオン・ボナパルトは、フランス総裁政府からイタリア派遣軍司令官に任じられた。
時に二十七歳、彼を若僧となめてかかるマッセナ、ランヌら軍団長、師団長級の最高指揮官たちを生来の威厳をもって一にらみで掌握したナポレオンは、澳・伊(サルジニア)連合軍と対決すべく、ロンバルジア平野に向けて進軍を開始したのであった。開戦直前の四月十日、彼は全将兵に対し激励の大演説を行った。
「兵士たち(ソルダ)よ! 汝らは食にパンなく、着るに服なく、そして銃を枕に洞窟に眠りながら祖国のために戦ってきた。しかるに政府は、この驚くべき勇気と貢献に対し何を報いたであろうか。しかしながら、これからはちがう。余は汝らを世界でもっとも豊かなロンバルジアへ導く。満ちあふれる財宝は取るにまかせる。兵士たちよ、しばらくの間余とともに忍べ! 余とともに進め! 我らの進むところ栄光と富が待ち受けている。奮起せよ!」
この人情の機微をついた演説は、それまで沈滞の極に達していた三万八千のフランス軍の士気を一度に燃え上がらせた。
こうして軍隊を生まれ変わらせたナポレオンは、モンテノットの戦いで澳・伊連合軍六万を撃破したのを皮切りに、逃げるオーストリア軍をロディの決戦でさらに破り、最後の拠点マントバの要塞に追い込んだ。次いでフィレンツェ、ジェノバなど北イタリア諸国を降し、多額の軍費を徴収したうえ、堂々とミラノへ入城している。
このとき、ナポレオンの独走を恐れた総裁政府が、新たにケレルマン将軍を派遣してイタリアでの指揮権を分割しようとすると、ナポレオンは「一人の愚将は二人の名将に勝る」という、指揮権統一不可欠の鉄則を簡潔に表現した、痛烈至極の名言をもって、これを拒絶している。
翌一七九七年二月、彼は、マントバ要塞を陥落させたのちローマに進撃し、オーストリアと通謀していたローマ教皇ピウス七世を屈伏させ、四千万フランの償金と三百点に及ぶ美術品を押収した。ちなみに、この美術品が現在のルーブル美術館の収蔵品の中心となっている。
イタリア全土を征服したナポレオンは、ライン方面から転戦してきたオーストリア軍を各所に撃破して長駆ウィーンに迫り、十月十七日、独断でカンフォミオ条約を結んで、これを屈伏させた。この結果フランスは、かつてフランク帝国時代からの係争の地ライン河左岸地域、澳領ベルギーを得、またイタリア全土の支配権を得た。こうして一青年将帥ナポレオン・ボナパルトの名は、一躍ヨーロッパに響きわたったのである。同年十二月、彼は十一万五千の捕虜、鹵獲した軍旗百七十旒、大砲千七十門を携えてパリに凱旋し、市民の歓呼を浴びたのであった。」
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ナポレオンの絶頂期。
カッパ
「妖怪談義」 柳田國男 講談社学術文庫
メドチ(川童)譚 p98〜
「…小さな八戸地方の世間話が、われわれをして膝を打たしめた点を述べておこう。既に信仰者を失った水中の霊物が、なお角力(すもう)を取って人間の関取を押し伏せたということは、土地の人にとっては安からぬことであった。何とかして結局彼らを負かしたという話にしようというには、かれの秘密を聴き知ったというのが最も手軽でよい。これはむつかしく言うならば、人類の知識が進んで、次第に自然を制御して行くという理想を具体化したものとも言える。便利なことには見馴れぬ若い者が二人づれでやって来て、帰りに後について聴く人があるとも知らず、不用心にも自分の腕の抜けやすいという秘密を、洩らしてくれたという話になっているが、これなどもわれわれの妖怪に対する態度の変化であった。
川童にはめったにこんな失策がなかったようだが、同じ挿話は日本では蛇婿入りの話には多かった。夜来て晩に帰って行く不思議な婿殿を見あらわすために、母が勧めて糸のついた針をその衣服のはしに刺させる。そうして翌朝はその糸をたぐって、山奥の洞窟に行って大蛇を見たというまでは、古くかつ広い言い伝えであったが、わが邦では、通例これに立聴きの話がついて語る。静かに聴いていると岩穴の底で、唸り苦しむような声がきこえる。その傍に誰かを介抱していて、だからあれ程私が止めたではないか、やたら人間の娘などに手を出すから、針を立てられ銕気(かなけ)の毒に苦しめられるのだというと、他の一方の呻く者の声で、いやこれは死んでも思い残すことはない。種を人間の中に残して来たからと答える。なァに人という者は思いの外賢いものだ。もしも菖蒲と蓬の葉を湯に立てて、それで身を洗ったらどうする。せっかく生ませようとした子が皆下りるじゃないかと言っている。これはうまい事を聴いて来たと、早速家に帰ってその通りにした所が、果たして盥に何ばいとかの蛇の子が死んででて来てしまい、その娘は丈夫になったという風な話は、少しずつの変化を以ってどこの国にも行われている。これにも尋ねて行けば又原の型はあろうが、近頃では先ず主として、水の神との絶縁をこういう話にして説いている。角力の川童が腕を抜かれた理由に、これを適用していることはわれわれの文芸であった。そうして格別古い頃からの言い伝えでもなかった。しかも他の人は知っていないこういう大切な知識を、持っているものは神主であり又は教師であり酋長であったことは、大昔以来かわりはなかったろう。」
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不思議を求める心。
メドチ(川童)譚 p98〜
「…小さな八戸地方の世間話が、われわれをして膝を打たしめた点を述べておこう。既に信仰者を失った水中の霊物が、なお角力(すもう)を取って人間の関取を押し伏せたということは、土地の人にとっては安からぬことであった。何とかして結局彼らを負かしたという話にしようというには、かれの秘密を聴き知ったというのが最も手軽でよい。これはむつかしく言うならば、人類の知識が進んで、次第に自然を制御して行くという理想を具体化したものとも言える。便利なことには見馴れぬ若い者が二人づれでやって来て、帰りに後について聴く人があるとも知らず、不用心にも自分の腕の抜けやすいという秘密を、洩らしてくれたという話になっているが、これなどもわれわれの妖怪に対する態度の変化であった。
川童にはめったにこんな失策がなかったようだが、同じ挿話は日本では蛇婿入りの話には多かった。夜来て晩に帰って行く不思議な婿殿を見あらわすために、母が勧めて糸のついた針をその衣服のはしに刺させる。そうして翌朝はその糸をたぐって、山奥の洞窟に行って大蛇を見たというまでは、古くかつ広い言い伝えであったが、わが邦では、通例これに立聴きの話がついて語る。静かに聴いていると岩穴の底で、唸り苦しむような声がきこえる。その傍に誰かを介抱していて、だからあれ程私が止めたではないか、やたら人間の娘などに手を出すから、針を立てられ銕気(かなけ)の毒に苦しめられるのだというと、他の一方の呻く者の声で、いやこれは死んでも思い残すことはない。種を人間の中に残して来たからと答える。なァに人という者は思いの外賢いものだ。もしも菖蒲と蓬の葉を湯に立てて、それで身を洗ったらどうする。せっかく生ませようとした子が皆下りるじゃないかと言っている。これはうまい事を聴いて来たと、早速家に帰ってその通りにした所が、果たして盥に何ばいとかの蛇の子が死んででて来てしまい、その娘は丈夫になったという風な話は、少しずつの変化を以ってどこの国にも行われている。これにも尋ねて行けば又原の型はあろうが、近頃では先ず主として、水の神との絶縁をこういう話にして説いている。角力の川童が腕を抜かれた理由に、これを適用していることはわれわれの文芸であった。そうして格別古い頃からの言い伝えでもなかった。しかも他の人は知っていないこういう大切な知識を、持っているものは神主であり又は教師であり酋長であったことは、大昔以来かわりはなかったろう。」
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不思議を求める心。
posted by Fukutake at 10:50| 日記