2021年09月16日

宦官

「教科書では読めない 中国史」 冨谷至 小学館 2006年

 「帝政中国の鬼子 宦官

 中国2000年の帝政の歴史。そこには名流貴族をしのぎ政治を動かしてきた影の権力者 宦官がいた。…

 宦官の起源は、最初は捕虜に対する去勢、刑罰としての宮刑から始まる。族外の敵が反抗するのを防止するための措置が、同族内部の犯罪者に対する処罰へと移っていったのだろう。かかる去勢、宮刑は、春秋時代、否、それ以前から存在していたのだが、しだいに宦官の供給源が変化していく。とくに秦漢時代以降、つまり統一帝国が成立したあとには、宦官のなかで刑人や捕虜の占める割合は少なくなり、大半が自分から願って去勢する、もしくは親がわが子を去勢するという。いわゆる自営宦官であった。

 自ら進んで宦官になりたいなどといった信じがたいことが起こるのかと思われるだろう。しかし、時代を追って、自営宦官が引きも切らず増加していったこと、これは事実である。なぜそのようなことが出来(しゅったい)するのか。そこには、中国の皇帝政治と官僚制が深くかかわっている。
 宦官が担う職務は、秦以後、皇帝制度が成立してからは、宮廷にいて皇帝の身の回りの世話、皇帝の私的秘書としての務めである。ただし、秘書官といっても神格化された皇帝に仕える奉仕者は、神に仕えるものである以上、ただの人間ではなく、神と人との中間に位置する存在であることが求められる。別の見方からすれば、人間である官僚と皇帝の間に、その媒介者をおくことで、皇帝の神秘的権威を保持することができる。

 またこれは、民俗学の分野で指摘されていることで、中国の宦官にそのままあてはまるかどうかは、いま少し検討が必要だが、次のような見解も捨てがたい。身に傷害、欠陥、疾病などがそなわり、それゆえに共同体から離脱した異人は、世俗から忌避され、それゆえ、世俗を超越することで逆に神聖なものへとその性格が転化する。傷害は聖痕(スティグマ)となり、神に遣わされたもの、神聖を背負うものとして聖なる存在となる。かかるハンディを負い賤形に身をやつす存在は、神と人間とのふたつにまたがる存在、神と人間を媒介するものとなる。
 そういった観念的な面の他に、宦官は子孫、眷属をもたない。おのが一族の利を考えて行動する外戚とはちがい、一代限りの宦官は、皇帝に対する忠誠度が強く、それゆえ、皇帝は官僚や外戚よりも宦をいっそう重宝するのである。…」

-----
望んで去勢する人々。
posted by Fukutake at 12:59| 日記

2021年09月14日

漱石の手紙 - 率直かつ丁寧

「漱石書簡集」 三好行雄編 岩波文庫 1990年

(1916(大正五)年)p297〜

 「お手紙が正月十日に着きました。私は御無沙汰をして済まないと思いながらつい億劫だものだから無精を極めてしまうのに貴女は時々厭きもせずに音信を下さる。まことに感心です。尤も用がなくなって怠屈だから仕方なく手紙を書くんだろうと思うと有難味も大分減る訳だが、それでも私よりもよほど人情に篤い所があるからやはり私からいえば感心です。
 和子さんにはそれから二、三遍会いました。書をかけというから書きました。下手な字を書かせて御礼をいって持って行く人の気が解らないですね。和子さんといえば貴女も和子さんも御嫁に入ってからの方が様子が好くなりましたね。これは男子というものに対して臆面がなくなるからでしょう。あなた方は結婚前からあまり臆面のある方じゃなかったがそれでも娘の時分より細君になった方が私どもには話やすいような気がします。

 あなたのいる方は暑いそうだがこちらはまた御承知の通り馬鹿に寒いんで年寄は辟易です。気分はいつでも若いつもりでいるがもう五十になりました。白髪のじじいです。あなた方から見たら御とっさんのような心持がするでしょう。いやだなあ。
 今日は好い天気です。縁側で日向ぼっこをしながらこの手紙をかいています。シャムのお正月は変な心持でしょう。単衣を着て御雑煮を祝うのは妙でしょうね。

 シャムといえば長田秋濤さんは死にましたね。あなたの旦那様や西さんたちと一所に撮った写真が『太陽』か何かに出ていたから大方秋濤さんはシャムへ遊びに行ったのでしょう。だからあなたも知っているに違いない。人間の寿命はわかりませんね。この次あなたが日本に帰る時分には私も死んでしまうかも知れない。心細いですね。とはいうものの腹の中ではまだまだ何時までも生きる気でいるのだからその実は心細いほどでもないのです。

 昨日は露西亜の皇帝の叔父さんとかに当たるえらい御客さんが東京駅に着いたので天子様が出迎に行ったのです。その何とかいう長い名の御客さんは今日午は伏見宮、晩は閑院宮へ呼ばれて御馳走になるとかで新聞にその献立が出ていましたが、ああつづけて食べた日にゃかえって遣り切れないだろう。余計なお世話だがちょっと御気の毒に思います。
 明日から国技館で相撲が始まります。私は友達の桟敷で十日間この春場所の相撲を見せてもらう約束をしました。みんなが変な顔をして相撲がそんなに好きかと訊きます。相撲ばかりじゃありません。私は大抵のものが好きなんです。

一月十三日
井田芳子様                       夏目金之助」

-----
この年の暮れ(十二月九日)に漱石は亡くなった。

他のブログを見る : http://busi-tem.sblo.jp

posted by Fukutake at 08:46| 日記

2021年09月13日

奴隷売買の実況

「歴史の目撃者」 ジョン・ケアリー編 仙名紀訳 朝日新聞社 1997年

奴隷売買の現場 一八四六年十二月 エルウッド・ハーヴェイ博士 p181〜

 「私たちは、ヴァージニア州ピーターズバーグの近くで開かれた土地をはじめとする資産の競売に出かけた。その際、はからずも奴隷が競りにかけられている場面に出くわした。奴隷たちは売られることはないと告げられたうえで、建物の前に集められていた。彼らは、人々の群れをじっと眺めていた。土地の売買が終わると、競売人が大声てどなった。
「黒んぼを連れて来い!」
 奴隷たちの表情に、驚きと恐怖の色が走った。彼らは互いに顔を見合わせ、自分たちに注目している買い手のほうに視線を移した。自分たちはここで売られる運命にあり、肉親や友人たちとも永久に離されてしまうという恐ろしい事実に、激しく動揺した。女たちは自分の赤ん坊を急いで抱き取り、悲鳴をあげながら小屋に駆け込んだ。子どもたちは、小屋や木の陰に隠れた。男たちは絶望のあまり、無言で立ち尽くしていた。競売人が建物の玄関に立ち、「男と少年」が品定めを受けるために前庭に一列に並ばせられた。「丈夫かどうかの保証はないので、買い手が自分で確かめるようにという説明だった。数人の老人が、十三ドルから二十五ドルで売られていった。長年にわたる苛酷な労働ですっかり腰の曲がった年老いた男たちが心ない買い手にからかわれ、体が悪くて働けないことを告げる姿は哀れを誘う。彼らは奴隷商人に買われ、南部の奴隷市場で売り飛ばされるのを恐れているのである。
年のころ十五ぐらいの白人の少年が、競り台のうえに立たされた。茶色の髪は縮れていないし、肌はまったく白人と変わらない。顔つきにも、黒人を思わせるものはなかった。
 少年の肌の色について下品な言葉が交わされ、二百ドルの値がつけられた。「若いし使えそうな黒んぼなのに、それじゃ安すぎる」という声が上がった。「ただでもいらない」という者もいた。白い黒んぼは、むしろやっかいのタネだと言う者もいる。「白人」を売り買いするのはいけないことだ、と言う声も聞こえた。黒人を売ることより、もっと悪いことなのかと私は質問してやったが、その男は答えなかった。少年が競りにかけられたとき、母親が叫び声をあげながら家から走り出してきた。彼女は、悲しみで気も狂わんばかりだった。
「わたしの息子なのよ。お願いだから、連れて行かないで…」
 そこで、母親の声は聞こえなくなった。乱暴に引き戻され、ドアが閉められたからだった。この間も売買は少しも中断することなく続けられ、集まった人びとはこのような場面を当たり前だと思っているようだった。哀れな少年は、自分になんら同情や哀れみの気持ちを持たない大勢の人の前で声をあげて泣いてもどうしようもないと思ったのだろう、震えながら頰に伝わる涙を服の袖で拭いていた。この子は二百五十ドルほどで売られていった。競りの進行中、広場は叫び声や悲しむ声に包まれ、わたしの心は痛んだ。次に、一人の女の名が呼ばれた。彼女は幼児を老女に託す前にぎゅっと抱き締めると、機械的な足取りで進んだ。だが立ち止まると両手を高く差し上げ、悲鳴をあげたかと思うと、そのまま動けなくなってしまった。
連れの一人が、私の肩をたたいて言った。
「もう、行こう。これ以上は耐えられない」
 私たちは、その場を離れた。ピーターズバーグから乗った馬車の黒人の御者は、農園で働く小さな息子が二人いるそうだ、その子たちは売らない、と農園主が約束してくれたという。子どもはその二人だけか、と聞いてみた。
「八人いましたが、いまはあいつらだけです」
三人は南部へ売られ、彼らの消息はこらからもいっさい分からないだろうと、御者はつぶやいた。
(Dr.Elwood Harvey, in Harriet Beecher Stowe, A key to Uncle Tom's Cabin, 1953)

-----

posted by Fukutake at 10:25| 日記