「アランの幸福論」 アラン
ディスカヴァー・トウェンティーワン 2007年
「168 苦悩を自分と切り離して考える
たいていの人が生きていくコツを十分わかっていない。
わたしに言わせれば、幸せの秘訣のひとつは、自分の不機嫌を気にとめないことだ。こうしてはねつけられた不機嫌は、犬が犬小屋に戻っていくように、本来の野生の状態に戻るのである。
そして、これこそが倫理学のいちばん重要な部分のひとつであると、わたしは考える。つまり、自分の失敗や後悔、反省から出てくるいっさいの苦悩を自分と切り離して考えるのだ。
「この怒りも時がくれば消えてなくなるものだ」と言おう。子どもが泣きやむのと同じで、怒りもすぐに消えてなくなる。」
「182 上機嫌の種をまく
明るいことばを、心からの感謝のことばを、ひとことかけよう。冷めた料理が運ばれてきても大目に見よう。
この上機嫌の波に乗ればどんな小さな浜辺にでもたどりつける。オーダーをとってくれるウエーターの声の調子が違ってくる。テーブルの間を通っていく人たちの態度も違ってくる。こうして上機嫌の波動は、自分も含めたみんなの気分を軽やかにしながら、自分の周りに広がっていく。これには際限がない。
とはいえ、始め方には細心の注意をはらおう。気持ちよく一日を始めよう。気持ちよく一年を始めよう。」
「197 幸せな人だけ愛される
まだ十分に力説されていないが、幸せであることは、他人に対する義務でもある。
幸せな人だけ愛される。とはよく言われることだ。だがそれは、当然受けるに値する報酬であることが忘れられている。
なぜなら、不幸せ、退屈、憂うつは、だれにだって、そこら中の空気の中にものだからである。そういったよどんだ空気を追い払ってくれる人たち −− ある意味で、その活気あふれる生き様をしめすことでみんなの活力を浄化してくれる人たちに対しては、わたしたちは感謝の気持ちと勝利の冠を捧げなければならない。」
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幸せは義務。
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2021年09月21日
ユダヤ人憎し
「オルレアンのうわさ」 エドガール・モラン みすず書房 1973年
(だれ一人として行方不明になったという届けなど警察には出されていなかったのだが、いく人もの女性がさらわれ見えなくなってるといううわさが、まち中を揺り動かした。オルレアンの中心街にあるユダヤ人の所有する婦人服の店の試着室の中で、女性誘拐が行われているという話が、いく万の人々に信じ込まれていった)
うわさの進展 p127〜
「反ユダヤ主義をはげしくまき散らしていく根源は、さきの戦争のときの「対独協力者」とともに、一掃されていたのである。他方、ユダヤ人たちも他の人と全く同じ人間なのだという常識が確立しているようだとはいうものの、かれらはやっぱりどこか違っているという感情は、広く抱かれていた。
戦争ののちにも、「ユダヤ人の店に買いに行く」という言い方を人々はしてきた。このことばは、「値引きする」ということと「かれらの店は他とちがう」ということの、二つの意味をこめていたのだ。若い女性向けのこれらの新しい店が、たちまちのうちに好結果をもたらすと、それは、ユダヤ人は「すばしこい」とか、かれらはいつでもうまいやり方を心得ているとかいうことを示すことになる。こんなに安く売ることができるためには、かれらは「法外に儲けてきた」のだろうか、ともかくそのことは客の利益にはねかえってくる。これらすべてのことは、それをこえると、あるグループの他のグループへ向けられている、ただの蔑(さげす)みの感情であるものが、けわしい敵意へと一変してしまう目に見えないある一定の水準には、達していなかったのである。
そこで、この目に見えず穏やかな仕方でなされている区別は、ユダヤ人にとってもそうでない人々にとっても、意識されないままであった。けれども、この区別が存在していたことをはっきりと、次の事実が確証していると私たちには思える。その事実というのは、うわさがユダヤ人に近い人々の場に達したり、もっとまれなことだがユダヤ人の耳に届いたりしたときに、うわさのなかからユダヤ人のテーマが除外されて、話されていたことである。ユダヤ人社会の代表が、うわさはきわめて険悪な様相を帯びてきたときしか、(かれの仲間の人々によって)忠告されなかったことは、偶然というより、重要なことであると、私たちに思われる。
あるユダヤ人は、一九三二年以来、オルレアンの人なのであり、毎日かれの営む電気器具店のなかで、いく十人もの客と親しくふれ合い、またカフェでのたくさんの友だちをもっている愛想がよく、人好きのいい男なのであるが、かれの事務所のなかで、ユダヤ人に対してあるうわさが流れていると知らされたのは、五月三十日の正午なのである。(五月三十日〜三十一日にうわさがピークを迎える)
五月三十日〜三十一日に、うわさの広まりは、突然に残酷な仕方で、ユダヤ人商人たちのところに達する。かれらにやってきたものは、たんに女性誘拐を告発するというだけでなく、反ユダヤ主義の脅威なのである。そしてこの脅威は、のちに続く数日の間に、かれらにとってまさしく本質的な側面をなすようなひとつのいまわしい中傷となっていく。」
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(だれ一人として行方不明になったという届けなど警察には出されていなかったのだが、いく人もの女性がさらわれ見えなくなってるといううわさが、まち中を揺り動かした。オルレアンの中心街にあるユダヤ人の所有する婦人服の店の試着室の中で、女性誘拐が行われているという話が、いく万の人々に信じ込まれていった)
うわさの進展 p127〜
「反ユダヤ主義をはげしくまき散らしていく根源は、さきの戦争のときの「対独協力者」とともに、一掃されていたのである。他方、ユダヤ人たちも他の人と全く同じ人間なのだという常識が確立しているようだとはいうものの、かれらはやっぱりどこか違っているという感情は、広く抱かれていた。
戦争ののちにも、「ユダヤ人の店に買いに行く」という言い方を人々はしてきた。このことばは、「値引きする」ということと「かれらの店は他とちがう」ということの、二つの意味をこめていたのだ。若い女性向けのこれらの新しい店が、たちまちのうちに好結果をもたらすと、それは、ユダヤ人は「すばしこい」とか、かれらはいつでもうまいやり方を心得ているとかいうことを示すことになる。こんなに安く売ることができるためには、かれらは「法外に儲けてきた」のだろうか、ともかくそのことは客の利益にはねかえってくる。これらすべてのことは、それをこえると、あるグループの他のグループへ向けられている、ただの蔑(さげす)みの感情であるものが、けわしい敵意へと一変してしまう目に見えないある一定の水準には、達していなかったのである。
そこで、この目に見えず穏やかな仕方でなされている区別は、ユダヤ人にとってもそうでない人々にとっても、意識されないままであった。けれども、この区別が存在していたことをはっきりと、次の事実が確証していると私たちには思える。その事実というのは、うわさがユダヤ人に近い人々の場に達したり、もっとまれなことだがユダヤ人の耳に届いたりしたときに、うわさのなかからユダヤ人のテーマが除外されて、話されていたことである。ユダヤ人社会の代表が、うわさはきわめて険悪な様相を帯びてきたときしか、(かれの仲間の人々によって)忠告されなかったことは、偶然というより、重要なことであると、私たちに思われる。
あるユダヤ人は、一九三二年以来、オルレアンの人なのであり、毎日かれの営む電気器具店のなかで、いく十人もの客と親しくふれ合い、またカフェでのたくさんの友だちをもっている愛想がよく、人好きのいい男なのであるが、かれの事務所のなかで、ユダヤ人に対してあるうわさが流れていると知らされたのは、五月三十日の正午なのである。(五月三十日〜三十一日にうわさがピークを迎える)
五月三十日〜三十一日に、うわさの広まりは、突然に残酷な仕方で、ユダヤ人商人たちのところに達する。かれらにやってきたものは、たんに女性誘拐を告発するというだけでなく、反ユダヤ主義の脅威なのである。そしてこの脅威は、のちに続く数日の間に、かれらにとってまさしく本質的な側面をなすようなひとつのいまわしい中傷となっていく。」
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posted by Fukutake at 08:39| 日記
徳は教えられるか
「プラトン W ー 政治理論ー」田中美知太郎 著 岩波書店刊行
治国の根本にあるもの
国家成立の道徳的基礎ープロタゴラス神話 p51〜
「国家統治技術、知識あるいは智と呼ばれたものは何なのか。それの存在もしくはあり方は果たして自明なのか。われわれはそれが「徳は教えられ学ばれうるか」という問題につながるものであることを見たはずである。『プロタゴラス』においてプラトンは、かれがソフィストの元祖とみなすプロタゴラスをして、その抱負を語らせているのであるが、それはー
ひとがわたしのところから学べることはというと、まず自分の家についてはどうしたら自分の家を最もよくととのえることができるか、また国家のことについてもどうしたら実行においても言論の上でも最上の能力をもつことができるかの妙計なのである。
というようなものであった。対話人物のソクラテスはこれを受けてー
あなたの言おうとされているのは国家統治技術のことであり、あなたの約束されているのは、ひとをすぐれたよき市民にするということであるように思われるが。
と言いながら、果たしてそれが他の技術のように教えられ、学ばれうるものであるかどうかの疑問を出すことになる。「すぐれたよき市民をつくる」ということは、市民をすぐれたよき市民たらしめる市民の徳を教えるということであり、「国家統治の技術」は古代シナの賢人が考えた修身斉家治国平天下の道に通ずるものであると言うこともできるだろう。もしそういう術があり、これをわれわれが手にすることができたとしたら、それはすばらしいことだとソクラテスも言うのである。しかしそれはどうして可能なのかが問題なのである。なぜなら、まず、ー
アテナイの議会において土木工事とか造船とか、一般に専門技術にかかわることが議題になるときには、それぞれ専門家を呼んでその意見を聞くようにしていて、これについて何の知識もないような人間が意見を述べようとしても誰もそれを聞こうとせず、野次り倒して降壇させるという事実が見られる。ところが、国事についての専門家というものは存在せず、国事については専門の学問とか技術とかいうものはないということになるのではないか。。
またすぐれた政治家であったペリクレスのようなひとも、自分がすぐれている所以のもの(徳あるいは智)を自分の子弟や近親の者に教えることはできなかった。若い者たちは他の点では充分な教育を受けることができても、この点では何も教えられず、まるで「放し飼いにされた羊」のように、あてもなくそこらを歩き廻って、そのような徳に偶然出会うのを待つほかはないのである。治国の技術とか知識とかいうものは教えられも学ばれもせず、その教師というようなものはどこにも見るからないのであり、事実上存在しないと考えなければならない。
というような理由があげられる。これは治国平天下の道を教えることを看板にしているプロタゴラスにとって、そのような職業の存立を危うくする一大事が問われたことになるのであるが、われわれにとってもやはり絶体絶命の問いであると言わなければならないだろう。」
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事実上存在しない!
治国の根本にあるもの
国家成立の道徳的基礎ープロタゴラス神話 p51〜
「国家統治技術、知識あるいは智と呼ばれたものは何なのか。それの存在もしくはあり方は果たして自明なのか。われわれはそれが「徳は教えられ学ばれうるか」という問題につながるものであることを見たはずである。『プロタゴラス』においてプラトンは、かれがソフィストの元祖とみなすプロタゴラスをして、その抱負を語らせているのであるが、それはー
ひとがわたしのところから学べることはというと、まず自分の家についてはどうしたら自分の家を最もよくととのえることができるか、また国家のことについてもどうしたら実行においても言論の上でも最上の能力をもつことができるかの妙計なのである。
というようなものであった。対話人物のソクラテスはこれを受けてー
あなたの言おうとされているのは国家統治技術のことであり、あなたの約束されているのは、ひとをすぐれたよき市民にするということであるように思われるが。
と言いながら、果たしてそれが他の技術のように教えられ、学ばれうるものであるかどうかの疑問を出すことになる。「すぐれたよき市民をつくる」ということは、市民をすぐれたよき市民たらしめる市民の徳を教えるということであり、「国家統治の技術」は古代シナの賢人が考えた修身斉家治国平天下の道に通ずるものであると言うこともできるだろう。もしそういう術があり、これをわれわれが手にすることができたとしたら、それはすばらしいことだとソクラテスも言うのである。しかしそれはどうして可能なのかが問題なのである。なぜなら、まず、ー
アテナイの議会において土木工事とか造船とか、一般に専門技術にかかわることが議題になるときには、それぞれ専門家を呼んでその意見を聞くようにしていて、これについて何の知識もないような人間が意見を述べようとしても誰もそれを聞こうとせず、野次り倒して降壇させるという事実が見られる。ところが、国事についての専門家というものは存在せず、国事については専門の学問とか技術とかいうものはないということになるのではないか。。
またすぐれた政治家であったペリクレスのようなひとも、自分がすぐれている所以のもの(徳あるいは智)を自分の子弟や近親の者に教えることはできなかった。若い者たちは他の点では充分な教育を受けることができても、この点では何も教えられず、まるで「放し飼いにされた羊」のように、あてもなくそこらを歩き廻って、そのような徳に偶然出会うのを待つほかはないのである。治国の技術とか知識とかいうものは教えられも学ばれもせず、その教師というようなものはどこにも見るからないのであり、事実上存在しないと考えなければならない。
というような理由があげられる。これは治国平天下の道を教えることを看板にしているプロタゴラスにとって、そのような職業の存立を危うくする一大事が問われたことになるのであるが、われわれにとってもやはり絶体絶命の問いであると言わなければならないだろう。」
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事実上存在しない!
posted by Fukutake at 08:35| 日記