2021年08月25日

公の顔、私の顔

「日本の心」 小泉八雲 平川祐弘編 講談社学術文庫

旅の日記から より p100〜

「一八九五(明治二十八)年 四月十五日 大阪−京都間の車内で

 眠たくなったからといって横になれるはずもない公共の乗り物の中で、よく日本の女性は、こくりこくりし始める前に着物の長い袂を顔にあてる。今もこの二等車の中には、三人の女性が並んでうとうとしているが、三人とも左の袂で顔を隠し、列車の振動に合わせて、まるで緩やかな流れに浮かぶ蓮の花のように揃って揺られている。(左の袂を使うのは偶然によるのだろうか。本能によるものだろうか。恐らくは本能的な行為であろう。思わぬ衝撃があった時、右手を空けておけば吊り皮や座席につかまるのに最も都合が良いからである。)このような婦人達の様子は、綺麗でもあり、おかしくもあるが、たしなみのある日本の女性が何をするにも失うことのない優雅さの良い例として、はやり美しいものである。常にできるだけ優美に、できるだけ他人本位に振舞おうとするその流儀の、またとない例だからである。また同時にこの姿は、悲しみや、時には祈りの姿勢でもあるので、見る者の胸を打つところもある。これもすべて、最も幸せな顔だけを周囲に向けるようにしつけられた、義務の観念のなせるわざである。

 そのことで思い出す経験が一つある。
 私の家で長年働いてくれた男だが、私の見るところ世にも幸せそのものの男で、話しかけられればいつも笑い、嬉々として働き、人生の苦労など何一つ知らぬように思われた。ところがある日のこと、その場に誰も居合わせないと思っている時の彼の姿をのぞいた私は、びっくり仰天した。緊張を解いた顔は、日頃私の知っている彼の顔ではなかったのである。苦悩と怒りの険しい皺がその人を二十歳も老けたように見せていた。私はそれとなく咳払いをして、入って行くことを知らせた。するとその途端、彼の顔から皺は消えて穏やかに和らぎ、まるで若返りの奇蹟でも起こったかのように明るくなった。まさに絶え間ない自己抑制の奇蹟である。」

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ついこの間まで日本、そうでしたね。

posted by Fukutake at 10:22| 日記