「面白さは多様性に宿る」 養老孟司 「現代思想」2017 3月臨時増刊号より 青土社
日本人の美意識 p16〜
「感覚によって得るという意味での日本型の美を、冗長性がないというイメージに当てはめていくと、茶室が浮かびます。茶室には余計なものは置きません。冗長性がまったくないものが美だとするならば、茶室は徹底的に冗長性を切り詰めています。今収録しているこの会議室も何もないから茶室に近いですが、あまり美しい感じはしません。日本人だから畳などに郷愁があるんだ、と言われればそれまでかもしれませんが、何か足りないような感じがします。この部屋は切り離されている感じがしますが、茶室は必ずしもそうではない。そう考えるとわれわれの美的感覚はある意味で冗長性を落としていて、ある一瞬の一期一会なのです。そう考えると人工的につくったものが「美しい」というのはつくった話ではないかという気がしてきます。日本人は感覚的にある一瞬を捉えたものが美しいと感じるのだと思います。
ヨーロッパの庭園は左右対称につくられ、視点を固定して鑑賞します。一方、日本の庭は歩くことを前提にした庭で、歩くたびに景色が変わることで多様性をそのまま表しています。変わらないわけにはいかないのです。そう考えると西欧の庭と日本の庭は対極な感じがしてきます。日本の場合、人工環境がそのまま原生林までつながっていきます。昔から言われることですが、切り離して人間社会をつくってしまうヨーロッパには、そういう意味での自然との一体感はありません。それは範囲を決めてここからは自分の場所だと城壁をつくってしまう都市型の考え方です。面白いことに、日本には堀はありますが、城壁はありません。結局日本には、西欧風の大きな城壁を持った巨大な都市はできませんでした。
時の取り扱いにもその違いが出ていると思います。時間とともに変わってしまうものは日本ではあまり修正などしないで素直にそのままにし、ヨーロッパでは元の形に戻すことがどこかでいいと思っている気がします。だから「最後の晩餐」を書き直しているわけで、ボロボロになっているそのものがいいという感覚がないように思います。今は日本もそれに近くなってきています。」
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古びて変わっていく一瞬の姿も美のうち。