「ココロとカラダを超えて −エロス・心・死・神秘− 」 頼藤和寛 ちくま文庫 1999年
ココロは自転車操業中 p111〜
「たとえば、社会的アイデンティティという自己イメージを幻視します。自分の出自、生いたち、キャリア、立場、身分、その他あらゆる社会的手がかりをしっかりつかんだ上で「私はこれこれだ」という基本的信念にしがみつきます。それも周囲から一目置かれるような評価・規定・待遇の得られるほうが、より一層手応えがあって安心できそうで、できるだけ大層なものが望ましい。ところが全員同じことを考えがちなので競争になります。
絶対的な基準というものはありませんから、たいてい他とくらべてどうこうだと思い込みつつ本気になっていきます。いよいよおちつかずに金・地位・名声・権力・魅力その他を「私」というたよりのない核のまわりにひきよせたがり重ね着させたがります。このためには活動が必要でしょう。幸い、競争になっておりますから人並み以上の活動がしいられますし、活動自体も都合よく毎日紛らせてくれるので本来のたよりなさを忘れさせます。
個人に流入する情報が多くなればなるほど当然、他との比較するタネも豊富になりますから、昔のように閉鎖的な小集団の中で井の中の蛙をきめこむわけにもいかず、ますます競争にも拍車がかかるでしょう。
しかも、いくら頑張って仮に世界の王になったとしても、中核のたよりなさは本質的には不変です。このため欲求や活動にはきりというものがありません。「死して後、已む」というやつです。
何の因果か、自然から浮きあがったおかげで「私」というものはせっかくの一生を、かくて競いつづけ紛らせつづけていかねばならなくなる。ちょうど自転車に乗っているようなあんばいです。こぎつづけなければ倒れてしまう。この活動や努力の原動力、ひいては次々に新たな目標の幻をみつづける原動力がエゴといえましょう。エゴとは、おのれのたよりなさをごまかそうとする力に由来します。いわゆる利己的であれ利他的であれ、何かせっせと努めているのはエゴの原動力で動いています。それだけ余裕がないともいえます。なぜ余裕がないかというと、もしこの「せっせ」をやめると自転車が倒れて大変なことになると信じ込んでいるからです。
実際には(多くの人々が気づいていませんが)全てを休止して大の字に寝ころんでも、一日二〇〇〇カロリーとれて酸素さえ吸えれば心のたよりなさは乞食も大統領も同じですから、別にどうということもないのです。つまり走っていようが倒れていようが自転車にはかわりありません。
この事実をどんな誤解でごまかし、紛らせるか、というのがその人の人生観であり、世界観であることになるでしょう。そして、かかる誤解の集積、誤解の再生産のシステムこそ、社会であり文化であるのです。」
----
諦めろ。