「ヨーロッパ墓地めぐり」 養老孟司 「考える人」季刊誌2016年冬号 No.55より
p126〜
「欧米社会、とくに米国では、自由は主体のする選択にあると見做す。だから、「お 茶にしますか、コーヒーにしますか」と、アホなことを訊く。私は若いころはこれが大嫌 いだった。日本だったら、黙って飲み頃のお茶に羊羹が出てくる。それが気に入らな ければ、食べなければいいのである。なぜ「お茶か、コーヒーか」なのかというと、お 客の好みを親切に尋ねているわけではない。そこではお茶にするか、コーヒーにする か、それを選択する主体が存在する」ということを暗に認めさせようとしているのであ る。その矯正を若いころの私は嫌ったのだと思う。選択することを自由意志といっても いい。しかし自由意志の前提には、それを保持している「主体」が存在している。「お 茶か、コーヒーか」という時の強いメタ・メッセージは、「主体の存在」なのである。「選 択の自由」を強調することによって、「主体の存在という物語」を暗に強調することに よって、「主体の存在という物語」を暗に強制する。米国人がおしつけがましいのは、 多くの人が折に触れて感じることであろう。その根本にはこの種の強制ががある。な にが自由だ。そんなふうに私は思ってしまうのである。逆説的に言えば、だからこそ欧 米の文化では、自由、自由と繰り返すのであろう。自由が叫ばれる根底には、暗黙の 強制が存在している。 状況依存はさんざんバカにされてきた。主体性がない、意見がない。ものごとを決 める時には「空気」で決める。空気で決めるとはなにごとか。責任をとるべき主体が明 らかでないではないか。でも考えようによっては、状況依存ほど「客観的な」決め方は ない。当面すべての事情を配慮して決定するからである。その「当面の事情」の中に は、むろんさまざまな無意識的な状況が含まれている。これまでの義理だとか、朝食 を食べなかったための機嫌の悪さとか、よくわからない、あれこれの事情まで含まれ ているに違いない。そういうものは後から説明責任を問われたって、答えられるわけ がない。「あの時の状況では、ああするしか仕方がなかった」というしかない。さもなけ れば、腹を切る。要するに問答無用なのである。 現代人は意識の中に住まう。それはそれで仕方がない。意識は情報を扱うが、情報 はじつはすべて過去である。情報化された瞬間に固定し、ひたすらそのまま留まる。 それは生きていること、諸行無常、万物流転と百八十度違う。そんなことは明らかで あろう。だから現代人はうっかりすると生きそびれる。生きることは変化することであ り、留まらないことであり、二度と同じ状態をとらないことだからである。情報を追って ばかりいると、それをすっかり忘れてしまう。だから生きることに直面した瞬間に戸惑 う。想定外だという。
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八十歳に近づいて、いまごろ「生きる」ことに気が付いても遅いわ。でもまあ、ありが たいことに、長年骸骨に接してきたおかげで、それを考えることくらいはできる。ホスピ ス勤務の医師にいわれたことが忘れられない。九十歳を過ぎたお爺さんは入院して いて、毎日死にたくないとわめくんですよ。ということは、九十歳を過ぎて、これから生
きようと思っているわけである。それはそれでいい。でもこの人はこれまで生きてきた のだろうか。生きることを先延ばししてきたのではないのだろうか。現代社会、情報化 社会には、そういう恐ろしさがある。将来のため、いざという時のため。それが本当に 来るのだろうか。おそらく来ない可能性が高い。私はそう思う。」
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一生懸命自分の人生を生きよう。