「人生の短さについて」 セネカ著 茂手木元蔵訳 岩波文庫
幸福な人生とは p127〜
「幸福な人生は、人生自体の自然に適合した生活である。そして、それに到達するには次の仕方以外にはない。まず第一に、心が健全であり、且つその健全さを絶えず持ち続けることである。第二に、心が強く逞しく、また見事なまでに忍耐強く、困ったときの用意ができており、自分の身体にも、身体に関することにも、注意は払うが、心配することはない。最後に、生活を構成するその他もろもろの事柄についても細心ではあるが、何ごとにも驚嘆することはなく、運命の贈物は活用せんとするが、その奴隷にはなろうとしない。こういった仕方である。
これ以上蛇足を加えなくても理解されるであろうが、われわれを怒らせたり恐がらせたりするものが追い出されれば、不断の安静と自由とが続いて生ずる。なぜかというに、快楽や不安の念が投げ捨てられれば、取るに足らぬ果敢(はか)ないものや、それ自体の邪悪のゆえに有害なものどもに代わって、殊のほか大きい、しかも不動で不変な喜びが続いて生じ、更には心の平和と調和が、また、従順さを兼ねた偉大な心が生ずるからである。けだし、あらゆる狂暴性は小心から来るものである。…
「最高の善とは偶然的なものを軽んじ、徳に喜ぶ心である」と言っても、また「それは心の不屈な力であり、物事に経験が豊かであり、身振りが静かであるとともに、人情に厚く、交際にも思いやりのあることである」と言っても同じことである。
更にまた、次にように定義することもできる。われわれが善き人と称するのは、善悪の心以外はいかなる善悪も認めない人であり、また道義を尊び、徳に満足し、偶然的なもののために得意にもならず、さりとて失望もせず、自分が自分に与えることのできる善以上に大きな善を知らず、真の快楽とは快楽を軽蔑することと考える、そういった人のことである。つまり、われわれは次のように言っても差支えないではないか。幸福な人生の基は、自由な心であり、また高潔な、不屈にして強固な心であって、恐怖や欲望の圏外にある。それは徳行を唯一の善とし、背徳を唯一の悪として、その他のものは価値のない雑物の集まりに過ぎないとする。こんな雑物は幸福な人生の何ものをも奪うこともなく、また加えることもなく、来ようが去ろうが最高の善には増減がないのである。」
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孔子の精神と通ずるところがあります