「新版 発心集 上」 鴨長明 浅見和彦・伊東玉美(訳注) 角川文庫
蓮花城(れんげじょう)が入水(じゅすい)したこと p333〜
「近ごろ蓮花城といって、人によく知られている聖がいた。登蓮法師は知り合いで、何かにつけて、いろいろ面倒も見てきていた。何年か経ったある時、蓮花城がこう言った。「今は年を経るにつれ、体も弱ってまいりました。死がもうじきであることは疑いがありません。穏やかで静かな終わりでありたいというのが、私の最高の願いです。心が惑わず、落ち着いている時に入水して、最後を納めたいと思っています」。
登蓮はこれを聞いて、大変驚いた。「とんでもない。一日でも多く、念仏の行を勤めようと考えるべきです。入水の行などといったものは、愚かな人がやる行です」と言って諌めた。しかし蓮花城の心は全く揺るぐことなく、強く思い決めている様子であったので、登蓮は「入水をあそこまで決心されていらっしゃるのであれば、もうお留めすることはできない。これも定まった運命なのかもしれない」と思って、入水の支度や準備などを、協力して、一緒にあれこれ整えたのだった。
そしてとうとう、桂川の水の深い所に行って、念仏を高らかに唱え、やがて水の底に沈んでいったのだった。その時、噂を聞きつけた人々は大勢、市のごとく集まり、しばしの間、入水を尊み崇め、その死を悲しみ悼むこと限りなかった。登蓮は長年親しく付き合っていた間柄であったのにと思うと、深い哀しみにおそわれ、涙をこらえながら、帰っていったのだった。
さて、その後、何日か経ってのこと、登蓮は物の怪めかしいものに取り憑かれた。周りの人も不思議なことだ、奇妙なことだとと思っていると、霊が現れて「先の蓮花城」と名乗るのだった。登蓮は「とても本当のこととは思えない。長い年月おつきあいを重ね、最後の時まで恨まれるようなことは、一切ないはずだ。ましてや御決心のほども立派で、尊い御往生を遂げられたのではなかったのか。どちらにしても、どうして、そんな姿で現れてきたのか」と言うと、物の怪が答えた。
「そのことです。私の入水を幾度もお留め下さったにもかかわらず、私は自分の心も弁えず、全く意味のない死を選んでしまいました。あの通り、人からいわれてやったことでもなく、自分から進んでやったことなので、まさか飛び込む時に迷いなど起こるはずがないと思っておりました。ところが一体どんな悪魔のしわざなのでしょうか、まさに水に入ろうとしたその時、突然、死ぬのがこわくなってしまったのです。でも、あれほどの大勢の群衆を前にして、どうして入水を取りやめることができましょうか。『ああ、今止めて下され、止めて下され』と思って、あなた様の目としきりに視線を合わせたのですが、あなた様はお気づきにならず、『さあ、早く、早く』と促されるばかりでした。私は追い詰められて、沈んでしまったのです。本当に悔しく、未練が多く残ってしまいました。もう往生などということはどこかに飛んでいってしまい、どんでもない魔道の世界へと入ってしまったのでした。これも私一人の愚かな心から出た過ちでありますので、他の方をお恨みするようなことではありませんが、最後の一瞬に、悔しく思ったことから、こうやって、あなた様のところに現れてきたのです」と言うのだった。
これこそまさしく前世からの因縁だと思われます。そしてこれは末法の世に生きる人々へ誡めともなるに違いない。…」
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真実とは
「死体は嘘をつかない −全米トップ検死医が語る死と真実−」(“MORGUE A Life in Death”) ヴィンセント・ディ・マイオ 満園真木(訳)東京創元社
秘密とパズル p195〜
「我々はみな人生のパズルに悩まされる。答えのない謎があることを受けいれながら、それでも答えを探す。そしてえんえんとパズルのピースをはめては、えんえんとそれをばらしつづける。ずっとそうしてきたし、これからもずっとそうするだろう。死もまた多くのパスルをもたらすが、私が思うに、死の謎は隠されたものの中にではなく、見えるものの中にある。疑問に思って見ることは不自然ではない。目を背けて去ることこそが不自然なのだ。
(略)
(一審で有罪になった)マーティン・フリアスの事件は、パスルだと認識されたからこそ解くことが可能になった。ときにこうした謎が謎とは認識されず、正しい裁きが下されないことがある。殺人が自殺のように見えたり、事故が殺人のように見えたり、自殺が事故のように見えたりすることがある。それは映画のドラマの中だけの話ではない。人間は完全な存在ではなく、ときに潜在意識がひそかにささやくものしか見えないことがある。現実の謎はしばしば予期せぬ結果をもたらす。
私も最初の結論がかならずしも最善の結論ではなかったケースを人並み以上に見てきた。それらを解き明かすことこそ、自ら選んだ陰鬱な仕事の数少ない報いのひとつだ。
アメリカ人の死因の四十二パーセントは自然死で、三十八パーセントが事故死だ。九パーセントが自殺で、六パーセントが他殺(殺人にかぎらないが、他人により死にいたらしめられた場合)だ。そして残りの五パーセントは死因不明だ。
つまり現代のアメリカで死ぬ人間のほぼ五人にひとりは、死因にうたがわしいところがある。時や場所の何かしらが不自然で、我々はその答えを探してより深く追究しなければならない。
マーティン・フリアス事件は、お粗末な警察の捜査と稚拙な法医学、そして結論を急いだことが、本当の死の原因や種類を見誤らせた最初のケースではないし、もちろん最後のケースではない。それはあらゆる検死医の悩みの種でもある。直感がいつも正しいとはかぎらない。マーティンの経験が証明しているように、もっとも重要な手がかりはつねに一目瞭然とはかぎらないが、それでもそれは存在している。我々はそれを見ようと目をこらし、予断なくそれを解釈しなければならない。そうはいっても、世間は事実がどうあれ自ら出した結論のほうを好みがちだ。
すでに述べたとおり、真実を明らかにすることが法医学者の唯一の使命だ。警察の味方をするのでも敵になるのでもなく、遺族の味方をするのでも敵になるのでもなく、ただ公平で偏りのない真実を告げることだ。私の告げることが、彼らの聞きたかったことである場合も、聞きたくなかったことである場合もあるだろう。それは私にはどうでもいい。真実を告げているのだから。
真実はつねに満足のいくものとは限らない。」
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秘密とパズル p195〜
「我々はみな人生のパズルに悩まされる。答えのない謎があることを受けいれながら、それでも答えを探す。そしてえんえんとパズルのピースをはめては、えんえんとそれをばらしつづける。ずっとそうしてきたし、これからもずっとそうするだろう。死もまた多くのパスルをもたらすが、私が思うに、死の謎は隠されたものの中にではなく、見えるものの中にある。疑問に思って見ることは不自然ではない。目を背けて去ることこそが不自然なのだ。
(略)
(一審で有罪になった)マーティン・フリアスの事件は、パスルだと認識されたからこそ解くことが可能になった。ときにこうした謎が謎とは認識されず、正しい裁きが下されないことがある。殺人が自殺のように見えたり、事故が殺人のように見えたり、自殺が事故のように見えたりすることがある。それは映画のドラマの中だけの話ではない。人間は完全な存在ではなく、ときに潜在意識がひそかにささやくものしか見えないことがある。現実の謎はしばしば予期せぬ結果をもたらす。
私も最初の結論がかならずしも最善の結論ではなかったケースを人並み以上に見てきた。それらを解き明かすことこそ、自ら選んだ陰鬱な仕事の数少ない報いのひとつだ。
アメリカ人の死因の四十二パーセントは自然死で、三十八パーセントが事故死だ。九パーセントが自殺で、六パーセントが他殺(殺人にかぎらないが、他人により死にいたらしめられた場合)だ。そして残りの五パーセントは死因不明だ。
つまり現代のアメリカで死ぬ人間のほぼ五人にひとりは、死因にうたがわしいところがある。時や場所の何かしらが不自然で、我々はその答えを探してより深く追究しなければならない。
マーティン・フリアス事件は、お粗末な警察の捜査と稚拙な法医学、そして結論を急いだことが、本当の死の原因や種類を見誤らせた最初のケースではないし、もちろん最後のケースではない。それはあらゆる検死医の悩みの種でもある。直感がいつも正しいとはかぎらない。マーティンの経験が証明しているように、もっとも重要な手がかりはつねに一目瞭然とはかぎらないが、それでもそれは存在している。我々はそれを見ようと目をこらし、予断なくそれを解釈しなければならない。そうはいっても、世間は事実がどうあれ自ら出した結論のほうを好みがちだ。
すでに述べたとおり、真実を明らかにすることが法医学者の唯一の使命だ。警察の味方をするのでも敵になるのでもなく、遺族の味方をするのでも敵になるのでもなく、ただ公平で偏りのない真実を告げることだ。私の告げることが、彼らの聞きたかったことである場合も、聞きたくなかったことである場合もあるだろう。それは私にはどうでもいい。真実を告げているのだから。
真実はつねに満足のいくものとは限らない。」
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posted by Fukutake at 08:41| 日記