2021年08月04日

書くということ

「夜中の薔薇」 向田邦子 講談社 

女の仕事 p65〜

 「「考エルノハ平常ノコト、席ニ及ンデ間髪ヲ入レズ」

 長いこと蕪村のことばだと思っていましたが、芭蕉でした。私はなんでもよく間違えます。
 私の場合、ものを書いて暮らしを立てているということ自体、なにかの間違いのような気がしているのです。小さな偶然が重なり合い、算盤をはじくより作文を書くほうが多少得手であったのが、今日につながりました。下手くそな自分の字を見るのが嫌で、机に向うのを一寸伸ばしに伸ばして、ぼんやりしています。

「練っています」「まとめてます」などアンコ屋みたいなことを言っていますが、大したことを考えていない証拠に、机の前に坐る時間がだんだん長くなりました。間髪を入れずに書けたのは、十五年前にラジオの台本を書いていた時ぐらいです。
 あの頃は、なにも判っていなかったのです。
 世の中のことも、女に生まれた面白さも怖さも、ことばの持つ深い意味も。知らない者の強みで、突っ走っていたのでしょう。
 年を重ねるにつれて、大きな手強い獣に向かって噛みついてゆくという実感があります。
「僧は敲ク月下ノ門」には、推敲しなさいという意味があります。この書を書かれた中川一政先生にお目にかかる機会がありました。今年米寿の先生は、私に「これからですよ」とおっしゃいました。」
(朝日新聞/1980.11.1)

こころにしみ通る幸福 p67〜
 「好きな本は二冊買う、時には三冊四冊と買う。面白いと人にすすめ、強引に貸して「読みなさい」とすすめる癖があるからだ。貸した本はまず返ってこない。あとで気がつくと。一番好きな本が手許にないということになる。
 乱読で読みたいものを手当たり次第に読むほうである。寝ころがって読み、物を食いながら読む。ページを折ったりしみをつけたりは毎度のことで、本を丁寧に扱う人から見たら風上にも置けない人種であろう。外国旅行にも必ず本を持ってゆき、帰りは捨ててこようと思うのだが、結局捨てきれず重い思いをして持って帰ってくる。外国のホテルに、日本語の本を置いてけぼりにするのは、捨て子をするようで情において忍びないものがある。

 読書は、開く前も読んでいる最中もいい気持ちだが、私は読んでいる途中、あるいは読み終わってから、ぼんやりするのが好きだ。砂地に水がしみ通るように、体のなかになにかがひろがってゆくようで、「幸福」とはこれをいうのかと思うことがある。」

(朝日新聞/1981.1.25)

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物書きの気持ち!

posted by Fukutake at 10:32| 日記