「芝居の媚薬」 三島由紀夫 ランティエ叢書 角川春樹事務所 1997年
「人斬り」田中新兵衛にふんして p236〜
「映画はそもそも製作者や監督の作品であって、一俳優のものではない。…
俳優は映画においては、あくまで、一定の要求に従って選ばれた映像であることが第一、この要求にかなわなければ、いくら演技が巧くても意味がない。何ゆえ私に、幕末の刺客、薩摩侍の田中新兵衛の役が振られたか、多分、下手な剣道をやっていてサムライ・イメージを売り込んでいたり、テロリストを礼賛しているように世間から思われていたり、また私を使えばその分の宣伝費はタダですむと計算されていたり、いろいろ理由があるだろうが、「もの」を選ぶというのは、最終的には総合的判断である。総合的判断は非合理的なものである。…
それはともかく、橋本忍氏のすぐれたシナリオの中でも、ろくに性格描写もされておらず、ただやたらに人を斬った末、エエ面倒くさいとばかりに突然の謎の自殺を遂げる、この船頭上りの単細胞のテロリストは私の気に入った。
映画出演は三度目だからそんなにおどろくことはないが、いつもながらふしぎなのは、映画演技というものの性格である。ラッシュを見るまでは、いや、本編全巻を見るまでは自分の考えてやったことが、正しかったのかどうか最終的にはわからないのである。もちろん私のカットは、演技力のないのを庇って、むずかしい煩雑なビジネスも与えられず、アングルも工夫され、五社英雄監督が万事労ってくれている。だから私の判断なんかアテにならないが、名優の勝新太郎氏でさえ、自分で「これはいいカットだった」というのを、ラッシュを見てから、考えを変えたりすることがしばしばある。
たとえば、勝氏と私が呑み屋で呑んだくれていて、感情も交流して、実に巧く行ったと思われたカットが、マイクの影が映ってしまったとかいう技術的ミスで撮り直しになり、二人ともガッカリし、勝氏は三十分も気分を整理し直してから、リテイクして、二度目は一向に気が乗らなかったカットがあるがさてラッシュを見て比べてみると、二度目の方が格段によかったりするのである。… 」
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映画を作る側の不思議な面白さ。
2021年08月23日
仏像ファン
ウェブ版「考える人」より 抜粋
みうらじゅん氏へのインタビューインタビューより(抜粋)
「――みうらさんらしい仏教エッセイで、楽しく拝読していますが、中でも一番グッと来たのが、以下の一節です。「難しい経典までは読んだことがないけど、僕は勝手に仏像から優しくたって構わない≠ニいうことを学んだんだ」。この「優しくたって構わない」というメッセージにはグッと来ました。
特にタイの「寝釈迦」(註・涅槃仏ねはんぶつのこと)は、笑っているんだよね。あれはお釈迦さんが涅槃に入る寸前、つまり死ぬ寸前の姿をあらわしたものですが、きっとお釈迦さんは「死はみんなが思うより怖いもんじゃないよ」ということを伝えたくて、笑って見せたんじゃないかと。やっぱり人間が一番怖がるのは死でしょ。だから、あの方はあえて笑って死んで見せたんじゃないかな。とにかく「怖くないよ」ということを伝えようと思って、笑ってくださったんじゃないかなあと思って。
――「仏教ファン」というのは、「仏教が好きだけど、信心≠ェあるわけじゃない」ということでしょうか?
「仏教ファン」「仏像ファン」というのがいてもいいじゃないですか。
先ほどの「優しさ」だけど、ついつい自分を守るために、他人に優しくなれない時があるでしょう。飲み屋で後輩に説教するのも、自分を守りたいからで。後輩や友達が言うことを、「いや」とか「でも」とかで受けないで、「うんうん。そうだね」と優しく聞いていればいいものをね。それで「みうらさんは、何も知らないんですね」とか言われても、反論しないでニヤニヤしていればいい。どうしても人間は弱いから、それじゃ気が済まないんですよね。だから「俺だって知っているわ!」とか、「バカにすんな!」とか言っちゃう。そこを「僕滅」して、優しくなりたいんです。
――「僕」を「滅する」で、「僕滅」ですか。
「自分なくし」ですよね、第一は。「自分がある」と思うからケンカにもなるわけで、「僕滅」して、自分をなくせばいい。ただ、ずっとニヤニヤしているのは相当な修行が必要で、優しいことは一番難しいことだなと思うんです。
特に還暦を迎えてからは、「優しい老人」になろうと思って(笑)。そのためには自分の意見をなるべく言わない。例えばラーメンを見た時に、「おいしそう」とか「ははーん、これはあの系統の味だな」とか言わない。言うのは、「ラーメンだ」。それだけ。それを「おいしそう」とか言うと、必ず「この前食べたラーメンよりも〜」とか比較を始めるでしょう。「比較三原則」(註・みうらさんの造語。「他人・過去・親」と自分を比較しないこと)はもうやめて、見たまんま「お、ラーメンだ」だけ言えば、優しい人になれるんじゃないでしょうか。
――たしかに老人ホームで嫌われるタイプが、元大学教授と元新聞記者だと聞いたことがあります。
でしょう? どちらも「うまいことを言う」タイプだもんね(笑)。それはかわいくないですよ。空を見上げて、「うわあ、空だ」と言うのが理想で、できるだけ形容詞をなくしていく修行が必要だと思うんです。それが優しくなる第一歩。形容詞をたくさん使うと、どうしても比較≠ニ評論≠ェ出ちゃうでしょう。
みうらじゅん」
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優しい仏像
みうらじゅん氏へのインタビューインタビューより(抜粋)
「――みうらさんらしい仏教エッセイで、楽しく拝読していますが、中でも一番グッと来たのが、以下の一節です。「難しい経典までは読んだことがないけど、僕は勝手に仏像から優しくたって構わない≠ニいうことを学んだんだ」。この「優しくたって構わない」というメッセージにはグッと来ました。
特にタイの「寝釈迦」(註・涅槃仏ねはんぶつのこと)は、笑っているんだよね。あれはお釈迦さんが涅槃に入る寸前、つまり死ぬ寸前の姿をあらわしたものですが、きっとお釈迦さんは「死はみんなが思うより怖いもんじゃないよ」ということを伝えたくて、笑って見せたんじゃないかと。やっぱり人間が一番怖がるのは死でしょ。だから、あの方はあえて笑って死んで見せたんじゃないかな。とにかく「怖くないよ」ということを伝えようと思って、笑ってくださったんじゃないかなあと思って。
――「仏教ファン」というのは、「仏教が好きだけど、信心≠ェあるわけじゃない」ということでしょうか?
「仏教ファン」「仏像ファン」というのがいてもいいじゃないですか。
先ほどの「優しさ」だけど、ついつい自分を守るために、他人に優しくなれない時があるでしょう。飲み屋で後輩に説教するのも、自分を守りたいからで。後輩や友達が言うことを、「いや」とか「でも」とかで受けないで、「うんうん。そうだね」と優しく聞いていればいいものをね。それで「みうらさんは、何も知らないんですね」とか言われても、反論しないでニヤニヤしていればいい。どうしても人間は弱いから、それじゃ気が済まないんですよね。だから「俺だって知っているわ!」とか、「バカにすんな!」とか言っちゃう。そこを「僕滅」して、優しくなりたいんです。
――「僕」を「滅する」で、「僕滅」ですか。
「自分なくし」ですよね、第一は。「自分がある」と思うからケンカにもなるわけで、「僕滅」して、自分をなくせばいい。ただ、ずっとニヤニヤしているのは相当な修行が必要で、優しいことは一番難しいことだなと思うんです。
特に還暦を迎えてからは、「優しい老人」になろうと思って(笑)。そのためには自分の意見をなるべく言わない。例えばラーメンを見た時に、「おいしそう」とか「ははーん、これはあの系統の味だな」とか言わない。言うのは、「ラーメンだ」。それだけ。それを「おいしそう」とか言うと、必ず「この前食べたラーメンよりも〜」とか比較を始めるでしょう。「比較三原則」(註・みうらさんの造語。「他人・過去・親」と自分を比較しないこと)はもうやめて、見たまんま「お、ラーメンだ」だけ言えば、優しい人になれるんじゃないでしょうか。
――たしかに老人ホームで嫌われるタイプが、元大学教授と元新聞記者だと聞いたことがあります。
でしょう? どちらも「うまいことを言う」タイプだもんね(笑)。それはかわいくないですよ。空を見上げて、「うわあ、空だ」と言うのが理想で、できるだけ形容詞をなくしていく修行が必要だと思うんです。それが優しくなる第一歩。形容詞をたくさん使うと、どうしても比較≠ニ評論≠ェ出ちゃうでしょう。
みうらじゅん」
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優しい仏像
posted by Fukutake at 08:24| 日記
2021年08月20日
看取り
「「お迎え」されて人は逝く ー終末期医療と看取りのいまー」 奥野滋子 ポプラ新書
看取りの役割 p126〜
「旅立つ人を最期のときまで世話をし、静かに見守っていくのが「看取り」です。 いわば逝く者と遺される者の双方が、自らの死生について学び、死生観を養う。とり わけ、看取る側にとっては貴重で有益な経験です。
何しろ、私たちにとっての死は、たった一度限りです。死が目前に迫ってきて初めて 死に向き合う方法がわかるのだとしたら、あらかじめ死にゆく人から直接的にも間接 的にもさまざまな教えを乞うことができれば、自分の死の準備をすることができます。
看取りとは、そうした「死の予習」ができる大切な機会だと私は考えています。 最期が近づいている、いわば不安の中にいる人が何を感じ、何を考えているのか。 どのようにつらいのか、どんなことをしてほしいのか、そしてどんな言葉をかけてほし いのか。 看取りをする人は、このとき、ひたすら旅立つ人に接します。変わりゆく体の変化を 観察し、小さなつぶやきに耳を傾け、世話をしながら相手をもっと理解しようと努力し ます。
当然、「お迎え」現象が起きたとしても、単なる終末期の意識障害として片づけること なく、逝く人の言動の意味を探るようになります。 これが死というものをリアルに考える契機となり、いざ自分のときに大いに役に立つ のです。
麻酔科医、そして緩和ケア医として数多くの看取ってきた私が思うに、看取る人の 役割は二つあるのではないでしょうか。 ひとつは死にゆく人のためのもの。つまり旅立つ人を安心させ、彼らが自分の人生 を肯定する作業をそっと脇で手伝う役割です。 もうひとつは看取る人が、自分のその後の成長に看取りで得た経験、大切な人を失 うという「喪失感」をも取り込んで、それを糧にして成長していくことです。」
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看取りの役割 p126〜
「旅立つ人を最期のときまで世話をし、静かに見守っていくのが「看取り」です。 いわば逝く者と遺される者の双方が、自らの死生について学び、死生観を養う。とり わけ、看取る側にとっては貴重で有益な経験です。
何しろ、私たちにとっての死は、たった一度限りです。死が目前に迫ってきて初めて 死に向き合う方法がわかるのだとしたら、あらかじめ死にゆく人から直接的にも間接 的にもさまざまな教えを乞うことができれば、自分の死の準備をすることができます。
看取りとは、そうした「死の予習」ができる大切な機会だと私は考えています。 最期が近づいている、いわば不安の中にいる人が何を感じ、何を考えているのか。 どのようにつらいのか、どんなことをしてほしいのか、そしてどんな言葉をかけてほし いのか。 看取りをする人は、このとき、ひたすら旅立つ人に接します。変わりゆく体の変化を 観察し、小さなつぶやきに耳を傾け、世話をしながら相手をもっと理解しようと努力し ます。
当然、「お迎え」現象が起きたとしても、単なる終末期の意識障害として片づけること なく、逝く人の言動の意味を探るようになります。 これが死というものをリアルに考える契機となり、いざ自分のときに大いに役に立つ のです。
麻酔科医、そして緩和ケア医として数多くの看取ってきた私が思うに、看取る人の 役割は二つあるのではないでしょうか。 ひとつは死にゆく人のためのもの。つまり旅立つ人を安心させ、彼らが自分の人生 を肯定する作業をそっと脇で手伝う役割です。 もうひとつは看取る人が、自分のその後の成長に看取りで得た経験、大切な人を失 うという「喪失感」をも取り込んで、それを糧にして成長していくことです。」
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posted by Fukutake at 16:08| 日記