2021年07月28日

人間が選び取るチャンス

「悪について」 エーリッヒ・フロム 鈴木重吉 訳 紀伊国屋書店

自由について p200〜

「スピノザ、マルクス、フロイト、この三人の思想家は、「人間は独立と自由のために 闘い敗北し<うる>ことがあるという意味で、まさに決定論者であるが、本質的には 択一論者である。人間はある種の確知しうる可能性の中から選択しうること、そして 択一から惹起するものはその人間にかかっているのであって、人間が自らの自由を 喪失しない限りはその人間次第であることを、彼らは教えたのである。... かれらにとって、自由とは、必然性を意識して行為する以上のものであり。自由と は、人間が悪に対抗して善を選択する大きなチャンスであり ー 意識性と努力に基 づき、現実性可能性の中から選択をするチャンスでもあった。かれらの立場は決定論 でもなく、また非決定論でもなかった。それは現実的でかつ批判的なヒューマニズム であった。 ここでいうヒューマニズムの立場とは、本質的には旧約聖書の立場である。主は心 変わりにより歴史に干渉することはない。主は使徒や予言者に三重の使命をもたせ て派遣する。すなわち人間にある目標を示し、人間に自己の選択した結果を示し、悪 しき決定に抗議するという三重の使命を。人間の選択は人間のすることで、誰も、神 でさえも人間を「救う」ことはできない。この原理を最も明確に表現したものはイスラエ ルの人たちが王を立ててほしいといったときに、サムエルに対して言われた主の言葉 である、「今その声に聞き従いなさい。ただし深く彼らを戒めて、彼らを治める王のな らわしを彼らに示さなければならない」。サムエルは民に東洋の独裁制に厳しく批判 を与えた後、民がなおも王を求めたとき、主はサムエルに言われた「かれらの声を聞 き従い、かれらのために王を立てよ」(サムエル前書八・九九・二二)。 択一論を示す同様の趣旨は次の文にあらわれている。「自分は、今日あなたの前 に祝福と呪い、生と死を置いている。そうしてあなたは生を選んだのである」。人間は 選択できる。主は人間を救うことは出来ない。主のなしうることは、基本的な二者択一 すなわち、生と死に人間を直面させ ー 生を選ぶように人間を激励することである。

この基本的立場はまた仏教にもみられる。仏陀は人間をなやませる原因は煩悩で あることを知っていた。かれは人間が煩悩と苦悩にとりつかれ、輪廻転生の鎖につな がれたままであるか、煩悩を振り払い、苦悩と転生を終えるかのいずれかを選択せし めるようにした。人間はこの二つの現実的可能性から、そのひとつを選択することが できる、それ以外には人間に役だつ可能性なるものは存在しないのである。」

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理性的な人間が下す選択のみが悪を避けることができる。
posted by Fukutake at 08:45| 日記