2021年07月21日

ムーミン一家を思う

「ムーミン谷の十一月」 ヤンソン 鈴木徹郎訳 講談社文庫

(ムーミン一家の不在中に仲間たちがキッチンでパーティを開きます。ヘムレンさんは、ムーミンパパに敬意を表するために、詩を朗読する。)

p236〜

 「しあわせとは、なんだろう −−
日がくれて、自由になったひとときに、ずしりと手に伝わるオールの重み
とうしんそうとあしをかきわけ、どろ沼からボートをこぎだしうなばらに広がる自由の値打ちを知ることだ

ああ、人生とはなんだろう
人生は、ひとときのゆめ、ふきあふれる、きみょうなあらしだ
道にまよえば、苦しみはひとしお、なすべくもなく、とほうにくれて
うき世の重みは、十重二十重(とえはたえ)
ずしりと重たい 荷物のようだ
ああ こいしい
オールこぐ手に ずしりとつたわる重みが」

                十二月 ムーミン谷にて ヘムレン」


(英訳)
 「”Oh say, where lies true lasting happinesss?
In evening rest? In friendly glance? The more:
In sailing from the mire, the reeds, the mass,
The mighty ocean’s vastnesss to adore.

Oh, what is life? ‘tis nothing but a dream,
A vast and enigmatic flowing stream.
Such tender feelings fill my heaving breast
I know not how or where they’ll come to rest;
My cares are multitud inous and sore,
I long to feel the friendly rudder in my paw.”
( Tove Jansson “Moominvalley in November”)
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posted by Fukutake at 13:54| 日記

海上の道より

「海上の道」柳田國男 岩波文庫

知りたいと思う事二三 p292〜

 「海豚(いるか)参詣のこと
 これは三十年近くも前から、心に掛けている問題だが、旅行を止めてしまって、急に新しい材料が集まってこなくなり、しかも関心はまだなかなか消え薄れない。この大きな動物の奇異なる群行動が、海に生を営む人々に注意せられ、また深い印象を与えたことは自然だが、その感激なり理解なりの、口碑や技芸の中に伝わったものに、偶然とは思われない東西の一致がある。それを日本の側において、できるだけ私は拾い集めようとしていたのである。或いは他の色々の魚群などにもあるかもしれぬが、毎年時を定めて廻遊してくるのを、海に臨んだ著名なる霊地に、参拝するものとする解説は、かなり弘く分布している。これも寄物の幾つかの信仰のように、海の彼方との心の行通いが、もとは常識であった名残ではないかどうか。出来るならば地図の上にその分布を痕づけ、かつその言伝えの種々相を分類してみたい。新たに捜しまわるということはできぬだろうが、現在偶然に聴いて知っておられることを、なるべく数多く合わせて見ることが私の願いである。」

 「みろく船のこと
 弥勒の出現を海から迎えるという信仰が、遠く隔てた南北の二地にある。一方は常陸の鹿島を中心にした鹿島踊の祭歌、いま一つは南方の八重山群島の四つ以上の島で、この方は明らかにニロー神、すなわちニライの島から渡って来たまう神を誤って、そういう風に解するようになったものと思う。鹿島の弥勒ももとはそれではなかったかどうかは、この中間の他の地方に、是に類する信仰があるか否かによって決する。中世の文学に幾たびか取上げられた美々良久(みみらく)の島、亡くなった人に逢うことができるという言い伝えのあるその島は、はたして遣唐使が船を寄せたという肥前五島の三井楽の崎と同じであったか、または何処かの海上の弥勒の浄土を、こういう風に語る人があったものか。それを今私は考えてみようとしている。弥勒に対する古い信仰の名残は、思いの外そちこちに分布している。海に接した他の地方にも、何かそういう類の話は無いかどうか。もしあったならば断片でも知らせてもらいたい。」

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本文章は、柳田國男の喜寿の記念に自身の興味を寄せる問題を集めて刊行したもの。
posted by Fukutake at 08:42| 日記