2021年07月19日

供出

「宮本常一著作集 13 民衆の文化」 未来社

庶民の世界 p71〜

「終戦の時、私は大阪府につとめていた。これという事務をとっていたのではなく、農 村をあるいて、そこにおこるいろいろの問題をできるだけスムーズに敏速に解決する ように仕向けることを任務としていたので、いつもボロ自転車で府下を歩き回ってい た。九月何日だったか、大阪へも米軍が進駐するすることになり、明日は和歌浦へ米 艦隊入港という日、大阪と和歌山をつなぐ国道を自転車で走ってみると、沿道の人々 は道の掃除をしていた。これは進駐軍を迎えるためのものであった。みんな一生懸命 にやっていた。「ご苦労さん」と挨拶をすると「Bさん(B29のこと)が来なくなってみん なのんきに仕事ができます」とだれも愉快そうにやっている。軍隊があおりたてた敵愾 心らしいものはどこにも見られないばかりでなく、まるで天皇でも迎えるような有様で ある。 さてその翌日もう一度同じ道を自転車で走ってみた。沿道には多くの人々がならん でいた。そして米軍のトラックやジープを歓迎していた。かつての敵軍を迎える態度で はなかった。と言って卑屈なものも見えなかった。 私はこうした光景に深い感慨をおぼえた。国内の秩序が崩壊しきっての敗戦ではな い。国の中で、国民同士が相争うまでにいたっていない状態での敗戦と、その後の処 置は、かつてのソ連やドイツとはちがった立直りをするのではないかということを、そ の時直観した。とにかく、同胞同士が血で血をあらうような争いはしなくてすむだろうと いう安心をおぼえたのである。と同時にこれから展開していく新しい日本の姿を考え てみた。

民衆は信じられる。 私はそれから大阪府下の村々を歩きまわった、戦のすんだあとの安心が、百姓たち を元気づけていた。負けても何でもとにかく戦争のすんだのはいいことだった。次に 来る問題は戦災をこうむった人たちを飢えさせてはならないということである。そこで 供出成績のわるいという農業会へ出かけていって事情をきき、また供出してもらうよう にたのんであるいた。そういうことになるとだれもすすんで供出しようというものはな かった。素直に出すと、まだあるだろうと追加して来る。だから私の言葉にはのられな いというのである。私はその通りだと思ったが、「仲間が飢えかけているのは事実な のだ。その人たちを飢えさせてはならない。われわれはまた食うものを持っている。役 人にだまされたっていいではないか、仲間を助けることにお互いの正義と誇りを持とう ではないか。それから私たちは新しく立ち上がる力を持つようになる。」そんな趣旨の ことをはなして協力をたのんだ。その場では決して承諾はしなかったが拒否もしな かった。そしてあとできっと追加供出までしてくれた。村によっては一三〇%供出をし てくれたものもあり、府下全体としては一〇七%の供出だったと思っている。「闇もや らねば生きていけぬ。それもやむをえない。しかし一人一人が、それぞれしなければ ならぬことだけはしようではないか。」それが私の気持ちだったが、農民にはそれがよ く理解してもらえたように思う。」

初出 『日本文化研究』3、1959年3月、新潮社
----
日本人の仲間意識
posted by Fukutake at 16:46| 日記

召集令状

「井伏鱒二全集 第十巻」 筑摩書房 1997年

旅館・兵舎 p155〜

 「私は小田嶽夫君といつしよに甲府市の東洋館といふ宿に滞在中、東京から愚妻の電話で私に徴用令が来てゐるのを知ることができた。その前後の十時ごろ、愚妻から「ヨウジアルスグオカエリコウ」といふ電報を受取つたが、夜の十時以後は汽車の都合が悪いので、翌朝早く汽車に乗るつもりで寝床についた。そしてまだ起きて同じ部屋で原稿をかいてゐた小田君に、自分だけ急に帰らなければならなくなつたことを私は謝つた。小田君は「子供さんの病気だらうか。いやそれなら病気と書いてある筈だ」といつた。ところが翌朝になつて梅干しでお茶を飲んでゐると、甲府市の郵便局長から私に電話がかかつて来た。昨夜、電報を確かに受取つたかと私に念を押した後、実は、あの電文の「ヨウジアリ…」は「コウヨウアリ」の間違ひだから改めて訂正したいと局長はいつた。するとまた別の電話がかかつて来て、今度は愚妻の声で徴用令が来てゐるといつた。電文は何と書いたかとたづねると「コウヨウアリ…」と書いたといふのである。私は区役所へ出頭する日取りを確かめて、まだ三日間も余裕があるので小田君とゆっくり話をして別れることにした。徴用になれば少なくとも二年間は会ふことはできないだらう。私たちはせめて将棋でもさして別れようなどと話し合つてゐたが、額の小さな娘は早くも私が徴用されたと知つて、廊下で笑ひ出した。「こら、何を笑ふか」と叱ると「あんなおぢいさんが、旋盤工になるなんて」といつてまた笑つた。私もその日頃までは、徴用者といふものはたいてい旋盤工になるものと思つてゐた。

 ところがまた電話がかかつて来て、今度は「そこに小川がをりますでせうか」と小田君の奥さんからの通話であつた。やはり小田君のところにも、徴用令が来たさうであつた。私は小田君が荷物を片づける間に階下の応接間へ降りて行き、そこにあつた新村出編集の辞苑といふ字引きを引いてみた。「せんばん」といふところを見たわけである。今でも私は、その「せんばん」の解説を覚えてゐる。「工作機械の一種、主軸が工作物とともに回転し、これを刃物に当て、云々」と説明してあつた。

 私は小田君といつしょに帰京して、三日後に区役所に出頭した。そして大勢の同業者や知り合ひの編輯記者たちが同じ命令を受けてそこへ集まつてゐるのを見た。私たちは受取つた書類により、大体において南方へ行くのだといふことを知つた。南方ならば仏印ではないだらうかとお互ひに語り合つた。…
 或るとき指揮将校の引率で、橿原神宮の参拝に出かけたが、私たちの軍装がきちんとしてゐないので、街の子供が「あれは支那の捕虜かいな」と話してゐるのを耳にした。そのなさけなたつたことは今だに忘れない。」

(一九四三(昭和十八)年二月十日発行『時局情報』(毎日新聞社)の「南方随筆」の一篇として発表)

-----

posted by Fukutake at 13:34| 日記