2021年07月01日

非を認める

「漱石全集 第二十二巻」初期の文章 岩波書店 

愚見數則 p211〜

「昔しの書生は、笈を負いて四方に遊歴し、此人ならばと思ふ先生の許に落付く、故に先生を敬う事、父兄に過ぎたり、先生も亦弟子に對する事、眞の子の如し、是でなくて眞の教育といふ事は出来ぬなり、今の書生は學校を旅屋の如く思ふ、金を出して暫く逗留するに過ぎず、厭になればすぐに宿を移す、かかる生徒に對する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚なり、主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、況んや番頭丁稚をや、薫陶所か解雇されざるを以って幸福と思ふ位なり。生徒の増長し教員の下落するは當前の事なり。
 勉強せねば碌な者にはなれぬと覚悟すべし、余自ら勉強せず、而も諸氏に面する毎に、勉強せよ々々といふ、諸子が余の如き愚物となるを恐るればなり、殷鑑遠からず勉旃*々々。
 余は教育者に適せず、教育家の資格を有せざればなり、其不適當なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり、是今の書生は、似非教育家でも御茶を濁して教授し得ると云ふ、悲しむべき事實を示すものなり、世の熱心らしき教育家中にも、余と同感のもの澤山あるべし眞正なる教育家を作り出して、是等の偽物を追出すは、國家の責任なり、立派なる生徒となつて、此の如き先生には到底教師は出来ぬものと悟らしむるは、諸子の責任なり、余の教育場裏より放逐さるるときは、日本の教育が隆盛になりし時と思へ。
 月給の高下にて、教師の価値を定むる勿れ、月給は運不運にて、下落する事も騰貴する事もあるものなり、抱關撃柝の輩時に或は公卿に優るの器を有す、是等の事は読本を読んでもわかる、只わかつた許りで実地に応用せねば、凡ての學問は徒労なり、晝寐をして居る方がよし。
 教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶誤りを教ふる事なきを保せず。故に生徒は、どこまでも教師の云ふ事に従うべしとは云はず、服せざる事は、抗弁すべし、但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし、此間一點の弁疎を容れず、己れの非を謝するの勇気は之を遂げんとするの勇気に百倍す。
 狐疑する勿れ、躊躇する勿れ、驀地に進め、一度び卑怯未練の癖をつくれば容易に去り難し、墨を磨して一方に偏する時は、中々平にならぬものなり、物は最初が肝要と心得よ。…」

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自分の非を認め謝るのは、通常の勇気の百倍の価値がある。
posted by Fukutake at 09:08| 日記

信用あればこその祈り

「馬鹿だなあ。肝腎なのは政治経済学なのに!」 スラヴォイ・ジジェク 
 長原豊 訳 『現代思想 2009 1 vol.37-1』 青土社 掲載記事より

p201〜

 「進行中の金融危機に対する驚くべき最初の反応は、ある者が言ったように、「何をすればよいのか分かっている人間が誰もいない」というものである。その理由は、期待がゲームの一部だからである。市場の反応は、どれだけの人びとが国家介入に信頼を置くかだけでなく、もっと重要なことだが、彼らが他の人びとがそうした介入にどの程度信頼を寄せると考えているのかにも懸かっている。ひとは自分自身の介入の効果−帰結を考慮に入れることができないのだ。随分前のことだが、ケインズは、株式市場におけるこの自己言及性を一〇〇枚の写真から数名の美人女性を選ばなばならない馬鹿げた(新聞紙上の)美人コンテストを事例に、描き出しているが、このコンテストでの勝利は、一般的見解にもっとも近い女性に与えられる。
 ここでは、判断のかぎりを尽くして最も美しい顔を本当に選ぶということが問題ではないし、平均的な意見が最も美しいと本当に考えている顔を選ぶことさえ問題となってはいない。われわれは、自分たちの知力を挙げて平均的意見が平均的意見とみなしているものを予測するという、三次の次元まで到達している。なかには四次、五次、そしてもっと高次の次元を実践している者さえいる、と私は信じている。

 われわれは真っ当な意思決定を可能にする知識を意のままにできないにもかかわらず、意思決定を強いられているのである。あるいは、ジョン・グレイが言ったように、われわれは「あたかも自由であるかのごとく生きることを強いられている」のである。

 最近、ジョゼフ・スティグリッツは、ヘンリー・ポールソンの計画にもとづいたいかなる救済策も機能しないという予測が経済学者の間では常識になりつつあると前置きしたうえで、次のように書いている。

 政治家がこうした危機に際会して何もしないでいることなど不可能だ。というわけで、われわれは祈らなくてはならなくなる。たとえそれが、特定の利害や方向性を見誤った経済学、または右翼イデオロギーといった、危機を作り出した毒物のごた混ぜなどで念入りに造り込まれた合意であっても、どうか、効果ある救済計画を何とか与えてくれますように、あるいはむしろ、その失敗が酷い損害をもたらしませんように、と。
 彼は正しい。市場の実質的根拠が、信(用)、あるいはむしろ、他の人びとが信用することへの信(用)にあるからだ。…」


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全ての平均に自分は入っている?!
posted by Fukutake at 09:04| 日記