「宮本常一著作集 13 民衆の文化」 未来社
庶民の世界 p71〜
「終戦の時、私は大阪府につとめていた。これという事務をとっていたのではなく、農 村をあるいて、そこにおこるいろいろの問題をできるだけスムーズに敏速に解決する ように仕向けることを任務としていたので、いつもボロ自転車で府下を歩き回ってい た。九月何日だったか、大阪へも米軍が進駐するすることになり、明日は和歌浦へ米 艦隊入港という日、大阪と和歌山をつなぐ国道を自転車で走ってみると、沿道の人々 は道の掃除をしていた。これは進駐軍を迎えるためのものであった。みんな一生懸命 にやっていた。「ご苦労さん」と挨拶をすると「Bさん(B29のこと)が来なくなってみん なのんきに仕事ができます」とだれも愉快そうにやっている。軍隊があおりたてた敵愾 心らしいものはどこにも見られないばかりでなく、まるで天皇でも迎えるような有様で ある。 さてその翌日もう一度同じ道を自転車で走ってみた。沿道には多くの人々がならん でいた。そして米軍のトラックやジープを歓迎していた。かつての敵軍を迎える態度で はなかった。と言って卑屈なものも見えなかった。 私はこうした光景に深い感慨をおぼえた。国内の秩序が崩壊しきっての敗戦ではな い。国の中で、国民同士が相争うまでにいたっていない状態での敗戦と、その後の処 置は、かつてのソ連やドイツとはちがった立直りをするのではないかということを、そ の時直観した。とにかく、同胞同士が血で血をあらうような争いはしなくてすむだろうと いう安心をおぼえたのである。と同時にこれから展開していく新しい日本の姿を考え てみた。
民衆は信じられる。 私はそれから大阪府下の村々を歩きまわった、戦のすんだあとの安心が、百姓たち を元気づけていた。負けても何でもとにかく戦争のすんだのはいいことだった。次に 来る問題は戦災をこうむった人たちを飢えさせてはならないということである。そこで 供出成績のわるいという農業会へ出かけていって事情をきき、また供出してもらうよう にたのんであるいた。そういうことになるとだれもすすんで供出しようというものはな かった。素直に出すと、まだあるだろうと追加して来る。だから私の言葉にはのられな いというのである。私はその通りだと思ったが、「仲間が飢えかけているのは事実な のだ。その人たちを飢えさせてはならない。われわれはまた食うものを持っている。役 人にだまされたっていいではないか、仲間を助けることにお互いの正義と誇りを持とう ではないか。それから私たちは新しく立ち上がる力を持つようになる。」そんな趣旨の ことをはなして協力をたのんだ。その場では決して承諾はしなかったが拒否もしな かった。そしてあとできっと追加供出までしてくれた。村によっては一三〇%供出をし てくれたものもあり、府下全体としては一〇七%の供出だったと思っている。「闇もや らねば生きていけぬ。それもやむをえない。しかし一人一人が、それぞれしなければ ならぬことだけはしようではないか。」それが私の気持ちだったが、農民にはそれがよ く理解してもらえたように思う。」
初出 『日本文化研究』3、1959年3月、新潮社
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日本人の仲間意識
召集令状
「井伏鱒二全集 第十巻」 筑摩書房 1997年
旅館・兵舎 p155〜
「私は小田嶽夫君といつしよに甲府市の東洋館といふ宿に滞在中、東京から愚妻の電話で私に徴用令が来てゐるのを知ることができた。その前後の十時ごろ、愚妻から「ヨウジアルスグオカエリコウ」といふ電報を受取つたが、夜の十時以後は汽車の都合が悪いので、翌朝早く汽車に乗るつもりで寝床についた。そしてまだ起きて同じ部屋で原稿をかいてゐた小田君に、自分だけ急に帰らなければならなくなつたことを私は謝つた。小田君は「子供さんの病気だらうか。いやそれなら病気と書いてある筈だ」といつた。ところが翌朝になつて梅干しでお茶を飲んでゐると、甲府市の郵便局長から私に電話がかかつて来た。昨夜、電報を確かに受取つたかと私に念を押した後、実は、あの電文の「ヨウジアリ…」は「コウヨウアリ」の間違ひだから改めて訂正したいと局長はいつた。するとまた別の電話がかかつて来て、今度は愚妻の声で徴用令が来てゐるといつた。電文は何と書いたかとたづねると「コウヨウアリ…」と書いたといふのである。私は区役所へ出頭する日取りを確かめて、まだ三日間も余裕があるので小田君とゆっくり話をして別れることにした。徴用になれば少なくとも二年間は会ふことはできないだらう。私たちはせめて将棋でもさして別れようなどと話し合つてゐたが、額の小さな娘は早くも私が徴用されたと知つて、廊下で笑ひ出した。「こら、何を笑ふか」と叱ると「あんなおぢいさんが、旋盤工になるなんて」といつてまた笑つた。私もその日頃までは、徴用者といふものはたいてい旋盤工になるものと思つてゐた。
ところがまた電話がかかつて来て、今度は「そこに小川がをりますでせうか」と小田君の奥さんからの通話であつた。やはり小田君のところにも、徴用令が来たさうであつた。私は小田君が荷物を片づける間に階下の応接間へ降りて行き、そこにあつた新村出編集の辞苑といふ字引きを引いてみた。「せんばん」といふところを見たわけである。今でも私は、その「せんばん」の解説を覚えてゐる。「工作機械の一種、主軸が工作物とともに回転し、これを刃物に当て、云々」と説明してあつた。
私は小田君といつしょに帰京して、三日後に区役所に出頭した。そして大勢の同業者や知り合ひの編輯記者たちが同じ命令を受けてそこへ集まつてゐるのを見た。私たちは受取つた書類により、大体において南方へ行くのだといふことを知つた。南方ならば仏印ではないだらうかとお互ひに語り合つた。…
或るとき指揮将校の引率で、橿原神宮の参拝に出かけたが、私たちの軍装がきちんとしてゐないので、街の子供が「あれは支那の捕虜かいな」と話してゐるのを耳にした。そのなさけなたつたことは今だに忘れない。」
(一九四三(昭和十八)年二月十日発行『時局情報』(毎日新聞社)の「南方随筆」の一篇として発表)
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旅館・兵舎 p155〜
「私は小田嶽夫君といつしよに甲府市の東洋館といふ宿に滞在中、東京から愚妻の電話で私に徴用令が来てゐるのを知ることができた。その前後の十時ごろ、愚妻から「ヨウジアルスグオカエリコウ」といふ電報を受取つたが、夜の十時以後は汽車の都合が悪いので、翌朝早く汽車に乗るつもりで寝床についた。そしてまだ起きて同じ部屋で原稿をかいてゐた小田君に、自分だけ急に帰らなければならなくなつたことを私は謝つた。小田君は「子供さんの病気だらうか。いやそれなら病気と書いてある筈だ」といつた。ところが翌朝になつて梅干しでお茶を飲んでゐると、甲府市の郵便局長から私に電話がかかつて来た。昨夜、電報を確かに受取つたかと私に念を押した後、実は、あの電文の「ヨウジアリ…」は「コウヨウアリ」の間違ひだから改めて訂正したいと局長はいつた。するとまた別の電話がかかつて来て、今度は愚妻の声で徴用令が来てゐるといつた。電文は何と書いたかとたづねると「コウヨウアリ…」と書いたといふのである。私は区役所へ出頭する日取りを確かめて、まだ三日間も余裕があるので小田君とゆっくり話をして別れることにした。徴用になれば少なくとも二年間は会ふことはできないだらう。私たちはせめて将棋でもさして別れようなどと話し合つてゐたが、額の小さな娘は早くも私が徴用されたと知つて、廊下で笑ひ出した。「こら、何を笑ふか」と叱ると「あんなおぢいさんが、旋盤工になるなんて」といつてまた笑つた。私もその日頃までは、徴用者といふものはたいてい旋盤工になるものと思つてゐた。
ところがまた電話がかかつて来て、今度は「そこに小川がをりますでせうか」と小田君の奥さんからの通話であつた。やはり小田君のところにも、徴用令が来たさうであつた。私は小田君が荷物を片づける間に階下の応接間へ降りて行き、そこにあつた新村出編集の辞苑といふ字引きを引いてみた。「せんばん」といふところを見たわけである。今でも私は、その「せんばん」の解説を覚えてゐる。「工作機械の一種、主軸が工作物とともに回転し、これを刃物に当て、云々」と説明してあつた。
私は小田君といつしょに帰京して、三日後に区役所に出頭した。そして大勢の同業者や知り合ひの編輯記者たちが同じ命令を受けてそこへ集まつてゐるのを見た。私たちは受取つた書類により、大体において南方へ行くのだといふことを知つた。南方ならば仏印ではないだらうかとお互ひに語り合つた。…
或るとき指揮将校の引率で、橿原神宮の参拝に出かけたが、私たちの軍装がきちんとしてゐないので、街の子供が「あれは支那の捕虜かいな」と話してゐるのを耳にした。そのなさけなたつたことは今だに忘れない。」
(一九四三(昭和十八)年二月十日発行『時局情報』(毎日新聞社)の「南方随筆」の一篇として発表)
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posted by Fukutake at 13:34| 日記
2021年07月16日
結婚式で校歌
「交差点で石蹴り」 群ようこ 新潮文庫 平成十年
校歌 p181〜
「このごろは友だちがみんな中年になったものだから、結婚式に呼ばれることもなくなったが、かつて結婚式に出席したとき、不思議に感じていたことがある。新郎の友人が余興として、出身校の校歌を歌う場合があるのだが、その校歌を歌う人々の出身校が、間違いなく偏差値が高いといわれている大学だったからだ。
高卒の新郎の場合、あるいは大卒でもそれほど有名でない学校の場合は、校歌は歌われなかった。合格したと話を聞いて、「まあ、たいしたもんだわね」といわれるような学校を卒業した男性たちのみ、得意気に校歌を歌うでのあった。
私は社会人になったら、どこの学校を出たとか、どれだけ学校で成績がよかったなど、全く関係ないと思っている。それが証拠に、有名な大学を出ていてお勉強はできるけれど、とんでもなくアホな人を山ほど見ているからである。
それが社会人になって、何年もたっているというのに、結婚式の披露宴で学校の校歌を歌うなんて、どうかしているのではないかと、いつも思っていたのだ。彼らは偏差値の高い大学を出て、自慢なのだろう。しかし、その反面、社会人になってもまだ、学校をひきずっているなんて、そんなに今やっている社会人としての自分の仕事に、自信がないんだろうかと勘繰りたくもなる。そういうことは恥ずかしいと、わからないのかなあと、私は胸を張って歌われる校歌の合唱を、うんざりしながら聞いていたのである。
私が書く仕事をはじめたころ、取材の仕事があって、初対面の年下の男性編集者と組んだ。たまたまそのときは、いつもの連載の担当者が海外出張で同行できなかったため、ピンチヒッターとして登場したのだ。彼は会うなり、私の出身校を聞いた。そして、自分の出身校や、自分の妹の出身校、家の建坪などをとくとくと話しはじめた。
「兄妹揃って優秀なのねえ」私は嫌味をいったつもりだったのに、本人は全く気がつかず、「へへへ」と頭をかいて喜んでいたのだった。
連載の担当者との話し合いでは、三日間に分けて取材するスケジュールだったのだが、彼に、「あんたのために、三日も取材につきあえないんですよね」といわれ、私は朝の五時から十一時すぎまで、ぶっ通しで取材することになった。そんなに彼が仕事で忙しいのかと思ったら、彼は母校の早慶戦を見にいくために、私にそういったのが、後日、判明したのである。彼はにこにこしながら、「いつも早慶戦のときは、女の子たちがお弁当を作ってきてくれるんです」と、取材のときも心ここにあらずといった感じであった。
私はこのことで、偏差値と仕事の能力、賢さは正比例しないということを、あらためて確認した。」
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校歌 p181〜
「このごろは友だちがみんな中年になったものだから、結婚式に呼ばれることもなくなったが、かつて結婚式に出席したとき、不思議に感じていたことがある。新郎の友人が余興として、出身校の校歌を歌う場合があるのだが、その校歌を歌う人々の出身校が、間違いなく偏差値が高いといわれている大学だったからだ。
高卒の新郎の場合、あるいは大卒でもそれほど有名でない学校の場合は、校歌は歌われなかった。合格したと話を聞いて、「まあ、たいしたもんだわね」といわれるような学校を卒業した男性たちのみ、得意気に校歌を歌うでのあった。
私は社会人になったら、どこの学校を出たとか、どれだけ学校で成績がよかったなど、全く関係ないと思っている。それが証拠に、有名な大学を出ていてお勉強はできるけれど、とんでもなくアホな人を山ほど見ているからである。
それが社会人になって、何年もたっているというのに、結婚式の披露宴で学校の校歌を歌うなんて、どうかしているのではないかと、いつも思っていたのだ。彼らは偏差値の高い大学を出て、自慢なのだろう。しかし、その反面、社会人になってもまだ、学校をひきずっているなんて、そんなに今やっている社会人としての自分の仕事に、自信がないんだろうかと勘繰りたくもなる。そういうことは恥ずかしいと、わからないのかなあと、私は胸を張って歌われる校歌の合唱を、うんざりしながら聞いていたのである。
私が書く仕事をはじめたころ、取材の仕事があって、初対面の年下の男性編集者と組んだ。たまたまそのときは、いつもの連載の担当者が海外出張で同行できなかったため、ピンチヒッターとして登場したのだ。彼は会うなり、私の出身校を聞いた。そして、自分の出身校や、自分の妹の出身校、家の建坪などをとくとくと話しはじめた。
「兄妹揃って優秀なのねえ」私は嫌味をいったつもりだったのに、本人は全く気がつかず、「へへへ」と頭をかいて喜んでいたのだった。
連載の担当者との話し合いでは、三日間に分けて取材するスケジュールだったのだが、彼に、「あんたのために、三日も取材につきあえないんですよね」といわれ、私は朝の五時から十一時すぎまで、ぶっ通しで取材することになった。そんなに彼が仕事で忙しいのかと思ったら、彼は母校の早慶戦を見にいくために、私にそういったのが、後日、判明したのである。彼はにこにこしながら、「いつも早慶戦のときは、女の子たちがお弁当を作ってきてくれるんです」と、取材のときも心ここにあらずといった感じであった。
私はこのことで、偏差値と仕事の能力、賢さは正比例しないということを、あらためて確認した。」
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posted by Fukutake at 15:32| 日記