「オーウェル評論集」 小野寺健 編訳 岩波文庫 1982年
作家はなぜ書くか p11〜
「…作家はそもそも物を書くようになる以前に、すくなくとも多少は一生ついてまわる感情的な姿勢を身につけるはずである。言うまでもなく、作家である以上は自分の気質を律して、未熟な段階や偏った気質を脱するように努力するのは当然である。しかし若いころにうけた影響から完全に脱却してしまうなら、物を書く動機自体の命を絶ってしまうことになるだろう。生活費をかせぐ必要を別にすれば、物を書くには−−すくなくともそれが散文のばあい−−大きくわけて四つの動機があると思う。その四つには作家によって程度の差もあり、一人の作家についても、時に応じてその生活環境によって比率が変わるだろうが、以下にそれを並べてみる。
• 純然たるエゴイズム。頭がいいと思われたい、有名になりたい、死後に名声をのこしたい、子供のころに自分をいじめた連中を大人になったところを見返してやりたいといった動機。こう言うものが一つの動機であることを否定して格好をつけてみたところで、それはごまかしでしかない。その点では、作家といえども科学者、芸術家、政治家、法律家、軍人、大実業家−−要するに人類の最上層にいる人間となんら変わるところはないのだ。人類の大部分はそう自己中心的ではない。三十をこす頃になると個人的な野心など捨ててしまい−−それどころか、そもそも個人としての意識さえ捨てたのも同然になって−−他人の生活のために生きるようになるか、骨が折れるだけの労働の中で窒息してしまうものだ。ところが一方には、少数ながら死ぬまで自分の人生を貫徹しようという決意を抱いている、才能のある強情な人間がいるもので、作家はこの種の人間なのである。れっきとした作家はだいたいにおいて、金銭的関心ではかなわなくとも、虚栄心となるとジャーナリズム以上につよく、自己中心的だと言っていいだろう。
• 美への情熱。外的な世界のなかの美、あるいは言葉とその正しい排列にたいする感受性。ある音とある音がぶつかって生じる衝撃、すぐれた散文の緻密強靭な構成、あるいはすぐれた物語のもっているリズムを楽しむ心、自分が貴重で見逃せないと思う体験を他人にもつたえたくなる欲望。こういう美的な動機にきわめて乏しい作家はいくらでもいるが、反面パンフレットや教科書の執筆者にも、功利的な理由とはかかわりなく自分が好きでたまらない言葉とか句があるものだ。あるいは、活字の組みとか、ページの余白のあけかたなどうるさいといったばあいもあるだろう。鉄道の時刻表ならともかく、それ以上の本には、必ずなんらかの美的関心がはらわれているものである。
• 歴史的衝動。物事をあるがままに見、真相をたしかめて、これを子孫のために記録しておきたいという欲望。
• 政治的目的−−この「政治的」はもっとも広い意味で用いる。世界をある一定方向に動かしたい、世の人びとが理想とする社会観を変えたいという欲望。このばあいも、なんからの政治的偏向がまったくない本というものはありえない。芸術は政治にかかわるべきではないという主張も、それ自体が一つの政治的な態度なのである。
•
私は平和な時代だったならば、政治的誠実などということはほとんど意識することさえなかったかもしれない。ところがそうはいかず、否応なしに一種の時事評論家になってしまったのである。」
(why I Write (1946))
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2021年06月21日
Why I Write
posted by Fukutake at 08:00| 日記
たましひを持つ生きている言葉
「本居宣長 下」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年
文字なき世 p208〜
「宣長は「古語拾遺」を重んじていた。その序に、「上古之世、未有文字、貴賎老少、 口口相伝、前言往行、存而不忘」とある。今の世で、物識りと言われるほどの人なら、 知らぬものはない言葉だが、いつの間にか、それほど名高い言葉となったという事 は、宣長に言わせれば、この上古の人々の間に、生きて働いていた口口相伝の言 が、文字に預けられて以来、固定した智識となって、死んで了ったことを語ってもいる のである。教養とか知能とかいうものを測る標準が、基本的には、読み書きが出来る 出来ないで定まって了い、誰もこれを疑わない世となっては、そのような事を気に掛 ける人もいない。
文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだ けで、支障なく続けられていたのは何故か。言葉といえば、話し言葉があれば足りた からだ。意味内容で、はち切れんばかりになっている。己の肉声の充実感が、世人め いめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を 欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、個人の言語経験の広大深刻な味 いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆する事が出来た。「書契以来、不好談 古」と言った斎部宿禰(いんべのすくね)の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要があ る事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。
先きに、宣長が歩いた「古事記」注解という「廻り道」について述べたが、彼が、非常 な忍耐で、ひたすら接触をつづけた「皇国(ミクニ)の古言」とは、注解の初めにあるよ うに、「ただに其ノ事のあるかたちのままに、やすく云初名(イヒソメナ)づけ初(ソメ)た ることにして、さらに深き理などを思ひて言へる物には非れば」、ー という、そういう 言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考え られぬほど優性だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という 言葉を持ち出した時、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深 く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさ せる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生れた、という事、言葉の 意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そ のあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたとい う、全く簡明な事実に、改めて、注意を促したのだ。情(ココロ)の動きに直結する肉声 の持つニュアンスは、極めて微妙なもので、話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思 い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉と いう物を、そのような、「たましひ」を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに 自然な事だったのである。」
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文字なき世 p208〜
「宣長は「古語拾遺」を重んじていた。その序に、「上古之世、未有文字、貴賎老少、 口口相伝、前言往行、存而不忘」とある。今の世で、物識りと言われるほどの人なら、 知らぬものはない言葉だが、いつの間にか、それほど名高い言葉となったという事 は、宣長に言わせれば、この上古の人々の間に、生きて働いていた口口相伝の言 が、文字に預けられて以来、固定した智識となって、死んで了ったことを語ってもいる のである。教養とか知能とかいうものを測る標準が、基本的には、読み書きが出来る 出来ないで定まって了い、誰もこれを疑わない世となっては、そのような事を気に掛 ける人もいない。
文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだ けで、支障なく続けられていたのは何故か。言葉といえば、話し言葉があれば足りた からだ。意味内容で、はち切れんばかりになっている。己の肉声の充実感が、世人め いめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を 欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、個人の言語経験の広大深刻な味 いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆する事が出来た。「書契以来、不好談 古」と言った斎部宿禰(いんべのすくね)の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要があ る事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。
先きに、宣長が歩いた「古事記」注解という「廻り道」について述べたが、彼が、非常 な忍耐で、ひたすら接触をつづけた「皇国(ミクニ)の古言」とは、注解の初めにあるよ うに、「ただに其ノ事のあるかたちのままに、やすく云初名(イヒソメナ)づけ初(ソメ)た ることにして、さらに深き理などを思ひて言へる物には非れば」、ー という、そういう 言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考え られぬほど優性だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という 言葉を持ち出した時、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深 く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさ せる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生れた、という事、言葉の 意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そ のあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたとい う、全く簡明な事実に、改めて、注意を促したのだ。情(ココロ)の動きに直結する肉声 の持つニュアンスは、極めて微妙なもので、話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思 い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉と いう物を、そのような、「たましひ」を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに 自然な事だったのである。」
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