2021年06月15日

源氏物語の人々

「本居宣長(上)」 小林秀雄 新潮文庫

源氏物語の中の人生 p305〜

「私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な 道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何を措いても、生まの現 実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間 性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては 充分な、又根本的な人生経験であろう。「源氏」は、極めて自然に、そういう考えに、 宣長を誘った。彼は、「源氏」を、誰にも親しい日常言語の表現力に扱われた、人生と いう主題と、端的に受取ったので、或る文学的着想の、或る文学的表現というような 中途半端な考えから、これに近付こうとしたのではない。
 ところで、この人生という主題は、一番普通には、どういう具合に語られるのか。特 に何かの目的があって語られるのではなく、宣長に言わせれば、ただ、「心にこめが たい」という理由で、人生が語られると、「大かた人の情(ココロ)のあるよう」が見えて 来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の 経験の世界が、即ちあるがままの人生として語られる物語の世界であるのだ。宣長 は、「源氏」を、そう読んだ。誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知る事ではない だろう。そんな格別な事を行うより先に、物事が生きられると言う極く普通な事が行わ れているだろう。そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしている、私達の直接経 験の世界に現れて来る物は、皆私達の喜怒哀楽の情に染められていて、其処には、 無色の物が這入って来る余地などないであろう。それは、悲しいとか楽しいとか、まる で人間の表情をしているような物にしか出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるま い。
 それが、生きた経験、凡そ経験というものの一番基本的で、尋常な姿だと言って よかろう合法則的な客観的事実の世界が、この曖昧な、主観的な生活経験の世界 に、鋭く対立するようになった事を、私達は、教養の上でよく承知しているが、この基 本的経験の「ありやう」が、変えられるようになったわけではない。 宣長は、経験という言葉は使わなかった。だから、ここでもう一度引用するという事 になるのだが、「よろづの事を、心あぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわき まへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也。(中略)わきまへしりて、其しなにした がひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上) ー そうすると、「物のあは れ」は、この世に生きる経験の、本来の「ありやう」のうちに現れると言う事になりはし ないのか。宣長は、このあるがままの世界を深く信じた。この「実(マコト)」の、「自然 の」「おのづからなる」などといろいろに呼ばれている「事」の世界は、又「言(コト)」の 世界でもあったのである。」

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posted by Fukutake at 13:21| 日記