2021年06月10日

モーツアルトの日常

「小林秀雄全集 第八巻」− モオツァルト− 新潮社版 平成十三年

モオツァルト p60〜

「プロドンムが、モオツァルトに面識あつた人々の記録を澤山集めてゐるが、そのなかで、特に僕の注意をひいた話が二つある。義妹のゾフィイ・ハイベルはこんな事を言つてゐる。
 「彼はいつも機嫌がよかつた。併し、一番上機嫌な時でも、心はまるで他處にあるといふ風であつた。仕事をしながら、全く他の事に氣を取られてゐるていで、刺す様な目付きでじつと眼を据えてゐながら、どんな事にも、詰まらぬ事にも面白い事にも、彼の口はきちんと應答するのである。朝、顔を洗つてゐる時でさへ、部屋に行つたり来たり、両足の踵
をコツコツぶつけてみたり、少しもじつとしてゐない、そしていつも何か考へてゐる。食卓につくと、ナプキンの端をつかみ、ギリギリ捻つて、鼻の下を行つたり来たりさせるのだが、考へ事をしてゐるから、當人は何をしてゐるか知らぬ様子だ。そんな事をしながら、さも人を馬鹿にした様な口付きをよくする。馬だとか玉突きだとか、何か新しい遊び事があれば、何にでも忽ち夢中になつた。細君は夫にいかがわしい附合いをさせまいとあらゆる手を盡すのであつた。彼はいつも手や足を動かしてゐた。いつも何かを、例へば帽子とかポケットとか時計の鎖だとか椅子だとかピアノの様に弄んでゐた。」

 もう一つは、義兄のヨゼフ・ランゲの書いたもので、彼の繪についいては既に觸れたが、この素人畫家が、モオツァルトの肖像を描かうとした動機は、恐らくここにあつただろう。彼はかう言つてゐる。「この偉人の奇癖については、既に多くの事が書かれてゐるが、私はここで次の一事を思ひ出すだけで充分だとして置かう。彼はどう見ても大人物とは見えなかつたが、特に大事な仕事に没頭してゐる時の言行はひどいものであつた。あれやこれや前後もなく喋り散らすのみならず、この人の口からあきれる様なあらゆる種類の冗談を言ふ。思ひ切つてふざけた無作法な態度をする。自分の事はおろか、凡そ何にも考へてゐないといふ風に見えた。或は理由はわからぬが、さういふ軽薄な外見の裏に、わざと内心の苦痛を隠してゐるのかもしれない。或は又、その音楽の高貴な思想と日常生活の俗悪さとを亂暴に對照させて悦に入り、内心、一種のアイロニイを楽しんでゐたのかも知れぬ。私としては、かういふ卓絶した藝術家が、自分の藝術を崇めるあまり、自分といふ人間の方は取るに足らぬと見限つて、果てはまるで馬鹿者の様にして了ふ、さういふ事もあり得ぬ事ではあるまいと考へた」」

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posted by Fukutake at 08:08| 日記

源氏のすごさ

「本居宣長補記 II」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年

源氏物語の言葉の力 p354〜

「宣長が「源氏物語」の「めでたさ」を言った時に、考えていたのは、実人生の作り直 しに払われた作者の烈しい努力であった。この努力はあらわなものではないだろう が、物語の誰もが捕らわれているあからさまな魅力の底から、宣長の凝視の下に、 はっきり姿を現して来たものだ。それが、彼の「源氏」の読み方であった。自己のうち に、出来るだけ深く入り込み、普通に生活していたのでは、なかなか眼には入らぬ、 手に負えぬほど微妙な人間の心情(ココロ)の動きに触れ、その生態を損う事なく、こ れを制馭可能な己の所有(もの)に変換させる、そういう作者の作業の現場を想い描 きつつ物語は読まれた。
  従って、彼の考え方からすると、作者の物語るところが、独創的であり、新鮮である のは、決して、表現上の装いによる効果ではない。言語を扱う上での、深い、基本的 と言っていい態度に由来している。一と口で言えば、何かの役に立つように、言葉を 使う事を断念したのである。一方、実生活とは、その隅々まで、何かの役に立つ言葉 で織られているものだ。これは否定できないが、実生活に従属し、利用され、惰性て 動いている世の習慣中に捕えられて硬直し、いずれは死語となる運命にある言語群 から自由になる「言辞の道」は開けているのである。歌人はこれを行くのだが、この道 の目指すところは、死語の群れをの覆いを取り除き、生きている心と周囲の現実と の、直かな接触の回復にある。
 歌道に通達した歌人は、周囲の事実に言うに言われぬ動きしか見ないと言ってい い。其処だけに注意を集中している。それが、言語の発生する現実の場所の意識に 他ならず、この意識だけは、眠らせまいと努力するのである。何故かと言うと、そのよ うな生活には不急不要な意識は、眠らせまいとする努力がなければ生き長らえる事 が出来ないからだ。 なるほどこれは、物語がめでたく完結するまで、作者だけが継続する事の出来た私 かな努力には違いなかったであろうが、努力は、誰もが感ずる事の出来、誰でも語る 事の出来る人の心情(ココロ)を語る上でなされたのである。従って、そのように仕上 げられたこの物語に、素直な心で対し、ことさらの読み枉げを、一切避けさえすれば、 知らぬ間に、作者の努力模倣しているだろう。
 作者が言葉に依って、今まで自分でも 気付かなかった新しい発見を目指して、自分の心情(ココロ)を探索する、そういう働 きに向かって、読者の心は、必ず開かれているだろう。(紫)式部と邪念の無い読者と の間を結ぶ、そういう関係を、宣長は「物語の魔」を排する事によって得たのではな い。そのような関係が、先ず信じられていなければ、「物語の魔」というような発想は 現れようがなかった事を、はっきり知って置かなければならない。この作者と読者との 協力とも言うべき関係は、外部からのどのような力によっても出来上がるものではな い。これは偏に、私達めいめいの心の奥深く(どれほど不覚にか、誰が知ろう)、配分 された言霊の力に依拠して成立している。それが、宣長が「源氏」に於いて、「言辞の
道」が果てまで歩かれていると見た理由であった。そして、言うまでもなくこの理由な るものは、その定義も証明も、宣長に拒絶してしていたのである。」

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「物語の作者と読者との親しい「交はり」、生きた「かたらひ」があった」
posted by Fukutake at 08:01| 日記