「噴飯 惡魔の辭典」 安野光雅、なだいなだ、日高敏隆、別所実、横田順彌
平凡社 一九八六年
「嘘(うそ)」p28〜
「真実」の対語だが、「これは真実だ」と断言することはうその一種である。(日高)
最初に、やや声を落とした「これは本当のことだけどね」という言葉から開始される総ての話と、最後にやや声を落とした「これは本当のことだよ」という言葉で締めくくられる総ての話。そして、最初にも最後にも、「本当だよ」という証明のつかない、総ての話。「本当だよ」。(別所)
アマゾンの奥地に、全身がまっ黒な色をした珍しいウソがいると伝え聞いた鳥類学者が調査にいってみたら、それは実はまっ赤な嘘だった、という話は、もちろん嘘だ。(横田)
覇者の常識、弱者の知恵。言葉や文章の中に、先天的に宿る欠陥。別の嘘がとってかわるまでの真実。
嘘と真実とが、実は同質の美徳であると思いいたることができず、人間のくせに嘘発見器を発明した者がある。もしそれがほんとうに機能したら、一番喜ぶのは悪魔である。(安野)
「そのうそ、ほんと」という言葉が、日本に流行したことがあった。知ってる知ってるという人があれば、その人のとしがわかる。しかし、こんな微妙な表現のできる若い女性は、今やどこをさがしてもいない。「ウソー!ホントニ?ホントニ?ウソー!ウソー!ホント?」こういう返事しかしてくれぬ。ある国立大学の教授に「どうしてこんなことに」と質問されたので、言下に「共通一次試験などのせいです。ウソ、ホント、と答える訓練を、あなたがたが、十何年も続けさせた結果です」といいきった。するとその教授、大声で叫んだ。「ウソー!」もう、なにをかいわんや、だ。(なだ)」
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あはれなる百姓
「本居宣長補記 II」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年
政道への意見 p326〜 (宣長は、天明七年、藩主より治道経世への意見を徴された)
「(その意見の中で宣長は)「今の世の百姓といふものは、いともいともあはれにふ びんなる物成」という感慨を洩らしている。宣長が、はっきり見ていたのは、家康以 来、「上」によって、頑強に守られて来た軍国制度の重圧が、当然齎した「下」の苦境 という事の成り行きであった。一揆を起こすとは、百姓にとっては、極めて尋常な自己 防衛策であると、宣長は解している。そういう所に追い込まれた百姓の心の動きが、 如実に語られるわけだが、ここでも亦注意すべき物の言い方に出会う。ー 「畢竟こ れ人為にはあらず、上たる人深く遠慮をめぐらさるべきこと也」ー この「人為」という 言葉には、宣長自身の含みがあった。「必然性」という現代語では、この含みは現せ ない。一揆は自然に発生したので、計画的行為とは言えないものだという、表面の意 味に止まるものでもない。これについて、深く遠慮を巡らしたのは、「上たる人」などは なく、実は宣長自身だった。追い込まれた苦境に随順して、生活する百姓の姿を観ず る宣長に、「あはれ」の感慨は必至だったのだが、学者は感慨に止まる事は出来ない ところに、遠慮を巡らさなければならぬ理由があったわけだ。 「紫文要領」の大胆な説によれば、「あはれ」という、歌語ではない平語の含みは、 非常に広いものであって、「あはれ」という審美にかかわる感慨を、遥かに超える事も あると言う。眼前の具体的な事物に密着し、事物の不断の動きとともに動く、沈着で、 謙遜な智慧にもなる。浮き上がった自己主張など全く知らぬ、活きた料簡の直感的な 働きというものがある。この働きを知っている人も亦、「物のあはれを知る人」と呼んで 少しも差支えない。広く言えば、何事につけても、「物の心を、わきまえしるが、則物の 哀れをしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよき といふに同じ」とまで説かれている。前々から、こういう考えを抱いていた事を、心に 入れて置けば、一揆について物語るにつれて、おのずから「大かた人の情(ココロ)の ありやう」というものが、宣長に見えて来た事も、解りにくい事ではあるまい。 夥しい主張をかかげて、分派に分かれている現代心理学者等につき、その「かた ぎ」を言うのは乱暴なようだが、ー 宣長の「大かたの人の情(ココロ)のありやう」とい う考えは、直ちに「人のまごころ」という考えに結び付くが、宣長の「道の学問」に必至 であったこの種の哲学的観念、それが現代心理学者の「かたぎ」から、一切拒絶され ている、そう言って置けば、ここでは足りるのである。宣長が、彼の「道の学問」の中 心部に、「人の道はいかなるものぞ」という哲学的な問いを、心の中心部に抱いてい ないような人間は、正常で健全な人間なら、あり得ないと信じたが為だ。これを拒絶す るとは、人間を拒絶する事だ。学問の対象として、人間の代わりに合理的人間を選ぶ 事だ。もし宣長の心理学を言うなら、このような傍観者の説明を事とする探求に惹か れざるを得ない学者の心理の、彼の言葉で言えば、「出で来る所」の研究と言う事に
なろう。其処に、想い描かれたのが、「大かたの人の情(ココロ)のありやう」であっ た。」
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政道への意見 p326〜 (宣長は、天明七年、藩主より治道経世への意見を徴された)
「(その意見の中で宣長は)「今の世の百姓といふものは、いともいともあはれにふ びんなる物成」という感慨を洩らしている。宣長が、はっきり見ていたのは、家康以 来、「上」によって、頑強に守られて来た軍国制度の重圧が、当然齎した「下」の苦境 という事の成り行きであった。一揆を起こすとは、百姓にとっては、極めて尋常な自己 防衛策であると、宣長は解している。そういう所に追い込まれた百姓の心の動きが、 如実に語られるわけだが、ここでも亦注意すべき物の言い方に出会う。ー 「畢竟こ れ人為にはあらず、上たる人深く遠慮をめぐらさるべきこと也」ー この「人為」という 言葉には、宣長自身の含みがあった。「必然性」という現代語では、この含みは現せ ない。一揆は自然に発生したので、計画的行為とは言えないものだという、表面の意 味に止まるものでもない。これについて、深く遠慮を巡らしたのは、「上たる人」などは なく、実は宣長自身だった。追い込まれた苦境に随順して、生活する百姓の姿を観ず る宣長に、「あはれ」の感慨は必至だったのだが、学者は感慨に止まる事は出来ない ところに、遠慮を巡らさなければならぬ理由があったわけだ。 「紫文要領」の大胆な説によれば、「あはれ」という、歌語ではない平語の含みは、 非常に広いものであって、「あはれ」という審美にかかわる感慨を、遥かに超える事も あると言う。眼前の具体的な事物に密着し、事物の不断の動きとともに動く、沈着で、 謙遜な智慧にもなる。浮き上がった自己主張など全く知らぬ、活きた料簡の直感的な 働きというものがある。この働きを知っている人も亦、「物のあはれを知る人」と呼んで 少しも差支えない。広く言えば、何事につけても、「物の心を、わきまえしるが、則物の 哀れをしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよき といふに同じ」とまで説かれている。前々から、こういう考えを抱いていた事を、心に 入れて置けば、一揆について物語るにつれて、おのずから「大かた人の情(ココロ)の ありやう」というものが、宣長に見えて来た事も、解りにくい事ではあるまい。 夥しい主張をかかげて、分派に分かれている現代心理学者等につき、その「かた ぎ」を言うのは乱暴なようだが、ー 宣長の「大かたの人の情(ココロ)のありやう」とい う考えは、直ちに「人のまごころ」という考えに結び付くが、宣長の「道の学問」に必至 であったこの種の哲学的観念、それが現代心理学者の「かたぎ」から、一切拒絶され ている、そう言って置けば、ここでは足りるのである。宣長が、彼の「道の学問」の中 心部に、「人の道はいかなるものぞ」という哲学的な問いを、心の中心部に抱いてい ないような人間は、正常で健全な人間なら、あり得ないと信じたが為だ。これを拒絶す るとは、人間を拒絶する事だ。学問の対象として、人間の代わりに合理的人間を選ぶ 事だ。もし宣長の心理学を言うなら、このような傍観者の説明を事とする探求に惹か れざるを得ない学者の心理の、彼の言葉で言えば、「出で来る所」の研究と言う事に
なろう。其処に、想い描かれたのが、「大かたの人の情(ココロ)のありやう」であっ た。」
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posted by Fukutake at 10:45| 日記