2021年06月08日

吾妻橋と身投げ

「明治の話題」柴田宵曲 ちくま学芸文庫 2006年

吾妻橋 p170〜

「隅田川五大橋のうち、一番先に鉄橋になつたのが吾妻橋である。この橋 のことは谷崎潤一郎の「幇間」にも出て来れば、芥川龍之介の「ひよつとこ」 にも出て来る。両方とも花見船の中で浮かれてゐる男の話だから、向嶋に 近い吾妻橋以外には、あまり縁がありさうもない。 「我輩は猫である」の寒月君が欄干から飛び込まうとして、うしろに飛んだ のも吾妻橋で、元版の「猫」には、吾妻橋の欄干を描いた中村不折の夜景 が挿画になつてゐる。この一段には実説と目すべきものがあつて、寒月君 のモデルである寺田博士が、「高浜、阪本、寒川諸氏と先生と自分とで、神 田連雀町の鶏肉屋へ昼飯を食ひに行つた時、隅田町辺を歩きながら寒川 君が話した、或る変り者の新聞記者の身投げの場面が矢張『猫』の一節に 寒月君の行跡の一つとして現はれて居るのである」と種明かしをした。この 新聞記者は三浦太郎、古い「日本」を見ると、時に後飛生の署名があるの は、この逸話に因んだペンネームなのである。 寒月君の身投げは、さういふ実説から転化したのであるが、古く吾妻橋は 投身の場所ではなかつたかと思はれる節がないでもない。円朝は、吾妻橋 の身投げを話に中に使つた。正岡子規が学生時代に書いた「読書弁」とい ふ文章にも、「吾妻橋より手を引きて情死すると変りあるべくもあらず」とある し、饗庭篁村の小説にも、月明の吾妻橋を徘徊して、身投げをしようとする 女を助ける話がある。暑熱を避けて橋上に佇むのを、或者は屢々(しばし ば)顧みて過ぎ、或者は俚歌を口吟(くちずさ)んでこれを諷し、或者はそん なに倚つかかつてゐては危ないと注意する。最後に巡査が咎めて去つた 後、本当の投身者が現れたのを、抱き止めて救ふのである。吾妻橋の投身 といふことが、多少流行をなしていたやうな気がする。 自殺の場所にも時代的な変遷がある。華厳滝は昔から日光山中に落ちて ゐたが、これが自殺の場所になつたのは、藤村操以来であろう。吾妻橋に はそれほど顕著な事件はなかつたにしろ、投身の場所として記憶されたこと があつたらしい。篁村の小説は月夜だから少し工合が悪いが、「欄干に倚つ て下を見ると、満潮か干潮か分かりませんが、黒い水がかたまつて只動い て居る様に見えます。花川戸の方から人力車が一台駆けて来て橋の上を通 りました。其提灯の火を見送つて居ると、段々小さくなつて札幌ビールの処 で消えました」といふ寒月君の話を読んでゐると、身を投げるには恰好の条 件を具えてゐるやうである。」

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posted by Fukutake at 07:59| 日記

素朴な心と世界認識

「本居宣長 下巻」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年

言霊 p228〜

「「伝説(ツタエゴト)」は、古人にとっては、ともどもに秩序ある生活を営む為に、不 可欠な人生観ではあったが、勿論、それは人生理解の明瞭な形を取ってはいなかっ た。言わば、発生状態にある人生観の形で、人々の想像裡に生きていた。思想という には単純すぎ、或は激しすぎる、あるがままの人生の感じ方、と言ってもいいものが あるだろう。目覚めた感覚感情の天真な動きによる、その受取り方があるだろう、誰も がしている事だ。この受取り方から、直接に伝説は生まれて来たであろうし、又、生ま れ出た伝説は、逆に、受取り方を確かめ、発展させるようにも働きもしたろう。宣長が 入込んだのは、そういう場所であった。 上代の人々の「心ばへ」を言う時、そういう場所を、彼が考えていたとすれば、古人 の「心ばへ」と言っても、真淵の言った意味とは余程違ったものだったわけだし、又、こ れを言うのに、今日の意味合で、主観的とか客観的とかいう、惑わしい言葉に躓いて はならない。古人の素朴な人情、人が持って生れて来た「まごころ」と呼んでもいいと した人情と、有るがままの事物との出会い、「古事記伝」のもっと慎重で正確な言い方 で言えば、ー 「天地はただ天地、男女(メヲ)はただ男女、水火(ヒミヅ)はただ水火」 の「おのおのその性質情状(アルカタチ)」との出会い、これらが語られるのを聞いて いれば、宣長には充分だった。

 そういう次第で、宣長が「上古事伝へのみなりし代の心」を言う時、私達が、子供の 時期を経て来たように、歴史にも、子供の世があったと言う通念から、彼は全く自由で あった。どんな昔でも、大人は大人であったし、子供は子供だったと、率直に考えてい れば足りた。自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人生の基本的 構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていたのである。 そう言う彼の考えからすれば、上古の人々の生活は、自然の懐に抱かれて行われ ていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事 は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも 宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知れぬ威 力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状」を見究めよう とした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きを俟たなけれ ば、出来ない事であった。そして、この働きも亦、空や山や海の、遥かに見知らぬ彼 方から、彼等の許に、やって来たと考える他はないのであった。神々は、彼等を信じ、 その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せた であろう。そういう声が、彼等に聞こえて来たという事は、言ってみれば、自然全体の うちに、自分達は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はな いと感じて生きて行く、その味いだったであろう。」

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posted by Fukutake at 07:55| 日記