「思索と体験」西田幾太郎 著 岩波文庫
ベルグソンの哲学的方法論 p125〜
「哲学即ち絶対の学問というのは如何なるものであろうか。ベルグソンに従えば、物 には二つの見方がある。一つは物を外から見るのである。或一つの立脚地から見る のである。それで、その立脚地によって見方も変わってこなければならない。立脚地 が無数にあることができるから、見方も無数にあるはずである。またかく或立脚地か ら物を見るというのは物を他との関係上から見るのである、物を他と関係する一方面 だけ離して見るのである、即ち分析の方法である。分析ということは物を他物によって 言い表すことで、此方の見方はすべて翻訳である、符号Symbolによって言い現わす のである。もう一つの見方は物を内から見るのである。着眼点などというものは少しも ない、物自身になって見るのである、即ち直観 Intuitionである。従ってこれを言い現 わす符号などというものはない、いわゆる言絶の境である。右二種の見方の中には 第一の見方ではいかに精緻を極めても、畢竟物の相対的状態を知るに過ぎぬ、到底 物其物の真状態を知ることは出来ない、ただ第二の方法のみこれによって物の絶対 的状態に達することはできるのである 例えば空間における一物体の運動ということでも、我々はこれを種々の立脚地から 見ることができ、また種々の方法で言い現わすことができるであろうが、そは皆外か ら見たので、ただその相対的状態を知るにすぎない。運動其者の絶対的状態を知る には、我々は動いた物の内心があるように見て、これと同感し、その状態に自分を置 いて見るのである。相対と絶対とを比較すると、恰も或市を種々の方向からとった写 真と市其者の実見との差異の如きものである。写真を幾枚あつめたとて実物の知識 のようにはならぬ。また例えば希臘語を知りおる者がホーマーの詩をよめば単純なる 一印象を留めるのみであるが、さてこれを希臘語を知らぬ者に説明して聞かそうとす ると如何に説明しても説明しつくすこができぬ。かかる絶対的状態は内より直観する にあらざれば到底これを知ることができぬ。 科学というのは分析の学問である、符号によって説明するのである。科学の中にて 最も具体的といわれておる生理学の如きものすら、単に生物の機関の外形を見て、 その形を比較し、その機能を論ずるまでである、終始有形的符号によって見ているの である。哲学はこれに反して直観の学問である、物自身になって見てその絶対的状 態を捕捉するのである、符号を要しない学問である。」
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あはれという感慨
「本居宣長 下巻」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年
あはれ p240〜
「「あはれ」の嘆きが、どんな多様な形を取って現れようと、その悉くは、「此世」の物 に触れたところに発している。解り切った事を言うようだが、「此世に死ぬるほどかな しき事は候はぬ也」と言う感慨となっても、やはり、そういうものなのか。その発する死 という物は、たしかに「此世」の物なのか。愚問とは言うまい。忽ち、話は面倒なことに なるからである。私達は、現に死を嘆いていながら、一方、死ねば、もはや嘆くことさ え出来なくなるのをよく知っている。生きている人間には、直かに、あからさまに、死を 知る術がないのなら、死人だけが、死を本当に知っていると言えるだろう。これも亦、 解り切った話になるではないか。まさしく、そのような、分析的には判じ難い顔を、死 は、私達に見せているのである。 宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼 の言い方に従えば、「物のあはれをしる情(ココロ)の感(ウゴ)き」は、「うき事、かなし き事」に向い、「こころにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理な く意識化、或は精神化が行われる道をたどるものだ、と言う。そういう情(ココロ)のお のずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのであ る。
この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此 世」の何物にも囚われず、患わされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かで ある、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるとこ ろ、そういう純粋無垢な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。と言っ て、こういうところで、内容を欠いた抽象観念など、宣長には、全くの問題の外であっ た。
繰返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持 てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのであ る。己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめていない 人はいないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下しているからである。死 は、私達の世界に、その痕跡しか残さない。残すや否や、別の世界に去るのだが、そ の痕跡たる独特な性質には、誰の眼にも、見紛いようのないものがある。生きた肉体 が屍体となる、この決定的な外物の変化は、これを眺める者の心に、この人は死んだ のだという言葉を、呼び覚まさずにはいない。死という事件は、何時の間にか、この言 葉が聞こえる場所で、言葉とともに起っているものだ。この内部の感覚は、望むだけ 強くなる。愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、 直な鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らか に、他人の死を確かめる事によって完成したと言えよう。そして、彼は、どう知りようも ない物、宣長の言う、「可畏(カシコ)き物」に、面と向かって立つ事になる。」
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あはれ p240〜
「「あはれ」の嘆きが、どんな多様な形を取って現れようと、その悉くは、「此世」の物 に触れたところに発している。解り切った事を言うようだが、「此世に死ぬるほどかな しき事は候はぬ也」と言う感慨となっても、やはり、そういうものなのか。その発する死 という物は、たしかに「此世」の物なのか。愚問とは言うまい。忽ち、話は面倒なことに なるからである。私達は、現に死を嘆いていながら、一方、死ねば、もはや嘆くことさ え出来なくなるのをよく知っている。生きている人間には、直かに、あからさまに、死を 知る術がないのなら、死人だけが、死を本当に知っていると言えるだろう。これも亦、 解り切った話になるではないか。まさしく、そのような、分析的には判じ難い顔を、死 は、私達に見せているのである。 宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼 の言い方に従えば、「物のあはれをしる情(ココロ)の感(ウゴ)き」は、「うき事、かなし き事」に向い、「こころにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理な く意識化、或は精神化が行われる道をたどるものだ、と言う。そういう情(ココロ)のお のずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのであ る。
この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此 世」の何物にも囚われず、患わされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かで ある、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるとこ ろ、そういう純粋無垢な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。と言っ て、こういうところで、内容を欠いた抽象観念など、宣長には、全くの問題の外であっ た。
繰返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持 てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのであ る。己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめていない 人はいないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下しているからである。死 は、私達の世界に、その痕跡しか残さない。残すや否や、別の世界に去るのだが、そ の痕跡たる独特な性質には、誰の眼にも、見紛いようのないものがある。生きた肉体 が屍体となる、この決定的な外物の変化は、これを眺める者の心に、この人は死んだ のだという言葉を、呼び覚まさずにはいない。死という事件は、何時の間にか、この言 葉が聞こえる場所で、言葉とともに起っているものだ。この内部の感覚は、望むだけ 強くなる。愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、 直な鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らか に、他人の死を確かめる事によって完成したと言えよう。そして、彼は、どう知りようも ない物、宣長の言う、「可畏(カシコ)き物」に、面と向かって立つ事になる。」
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posted by Fukutake at 09:30| 日記