「新訂 小林秀雄全集 第十三巻」本居宣長 新潮社 昭和五十四年
古今和歌集 p252〜
「宣長が「物のあはれ」を論じて、歌學といふものを根底からやり直さうとした時、先づその切つかけを「古今」の「假名序」に求めた事は、既に書いた。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とそなれりける」(假名序)と、貫之は言つたが、歌の種になる心とは、物のあはれを知るといふ働きでなければならない、と宣長は考へた。そして、彼は、「物のあはれ」といふ言葉を、「土佐日記」の中から拾い上げたものも、先づ確かな事である。
周知のやうに、「土佐日記」は、女が書いたといふ體裁になつてゐる。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」といふ書き出しは有名で、當時、男の日記は、すべて漢文で書かれてゐたから、さう斷らなければならなかつた、と解されてゐるのが普通だが、實際、貫之が、どういふ積りでこれを書いたか、はつきり言ふのは難かし
からう。女が書いた日記といふのが、恐らく貫之が試みた文學上の新趣向だつたであらうが、全く唐突な趣向がこらせるわけではないのだから、そのやうな女性が當時何處かに、實際に居たとしても、さう不思議ではないといふ事だつたであらう。女流の「日記」が現れて来る氣運は、漸く萌してゐたのであらうか。それにしても、女性について語るのでは足らず、女性自身に語らせるといふ手法を取つて、作者は、一體何が現したかつたのか、という事になれば、一向はつきりしない。
それよりも、さうはつきり問ふ事が、見當外れでもあらうか。貫之を近代小説家並みに扱ふわけにはいかない。貫之が、女性の讀者を。漫然と心に浮べてゐたところで、實際に、讀者が得られたかどうかも疑はしい事である。「日記」の書き手は女だ、女だから唐詩は書けない、と斷つてはゐるが、その證據は見當らぬと言つた具合で、特に女でなくては適はぬも
のが現れてゐるわけではなし、第一女らしい文體とも言ひかねる。やはり、貫之の關心の集中したところは、新しい形式の和文を書いてみる、といふ點にあつたと見ていいのではないか。
彼が、「古今集」の「假名序」を書いたのは、これより三十年ほど前であつた。「假名序」とは、貫之の猶子、淑望の作と傳へられている「眞名序」に對して、使はれてゐる言葉だが、この言葉の大事な意味合が、序と呼ばれてゐる漢文の文體を、和文に仕立て上げたもといふところにあつたのは、言ふまでもない。これは全く先例のない仕事で、餘程の困難が伴つた筈である貫之の漢詩文に關する教養を以てすれば、慣例に從つて、漢文で書いて置けば、何でもない事だつたであらう。ただ、やまと歌の歌集には、やまと詞のはし書きが、體裁上ふさはしいからうといふ事から、出来た仕事ではあるまい。恐らく、貫之にとつて、和文に劣らぬ、或る意味では一層むつかしい、興味ある問題として、常日頃から意識されてゐたであらう。」
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