「本居宣長 下巻」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年
カミ p105〜
「宣長には、迦微(カミ)という名の、所謂本義など、思い得ても得なくても、大した事 ではなかったのだが、どうしても見定めなければならなかったのは、迦微という名が、 どういう風に、人々の口にのぼり、どんな具合に、語り合われて、人々が共有する国 語の組織のうちで生きていたか、その言わば現場なのであった。「人は皆神なりし故 に、神代とは云」うその神代から、何時の間にか、人の代に及ぶ、神の名の使われ方 を、忠実に辿って行くと、人のみならず、鳥も獣も、草も木も、海も山も、神と命名され るところ、ことごとくが、神の姿を現じていた事が、確かめられるのである。上は産巣 日神から、下は狐のたぐいに至るまで、善きも悪しきも、貴きも賤しきも、強きも弱き も、驚くほど多種多様な神々が現れていたわけだ。では、この八百万(ヤオヨロズ)の 神々に共通な、神たる特質とは何か。「何(ナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれ たる徳(コト)のありて、可畏(カシコ)き迦微とは云なり」と宣長は答える。それは、読 者が既に読まれた通りである。 そこで銘記して置かねばならないのは、神という言葉が生きて使われていた、その 現場を、はっきり想い描いた上で、宣長は、そういう物の言い方をしている。という事 なのである。従って、この宣長の答えには、次のような含みがあると考えていい。神と は何かと問う諸君の眼には、御覧の通りの私の返答は、定義としてまことに覚束無い 物に映るだろうが、上代の人々の心に、第一、そのような問いが浮かんだ筈もないの だし、彼等は、私の言葉を耳にしても、誰も知っている、口にするまでもない解り切っ た事と受取ったであろう、と。こういう直感的な宣長の考え方には、一と口で、説明の 適わぬところがあるのだが、それも、神の古意を説く彼の文章の結末で、神という字 について論じている所に、よく出ているから、これに、直に当たってみるに如くはない のである。... 又、人々は、迦微と言う時、「ただに其物を指して云のみにして、其事其徳などをさし て云こと無きを」と言うが、これも無論、迦微の特にについて、彼等は無智であったと 言うのではない。先ず周囲の物との出会いがなければ、誰にも、生活の切っ掛けは 掴めはしないのであり、古い時代、世上に広く行き渡っていた、迦微に関する経験に しても同じ事で、先ず八百万の、何か恐るべき具体的な姿が、漠然とでも、周囲に現 じているという事でなければ、神代の生活は始まりはしなかった。 その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事 は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。」
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死の恩寵
「ココロとカラダを超えて ーエロス 心 死 神秘ー」 頼藤和寛 ちくま文庫 1999年
死の功徳 p171〜
「生物には「死の戦略」なるものがあって、各発育段階の死亡率はそれなりの適応 的意味を有している。限られた生息領域と生活資源、および分布密度が生殖可能期 間と組み合わされて厳密に数学的な解析を許す合理性でその種(スピーシーズ)の 死をデザインしている。多くの個体には死んでもらわねばならないのである。そして全 ての個体が最後に死なねばならない。さもなければ種全体が亡びる。この本体が亡 びないためには、たくさんの幼生が間引きされ、かつ生殖期を越えた成体にも増大し ていく死亡率を課さねばならない。 老年の意義とは、人間社会内部でこそあれこれのメリットを考え得るにせよ、生物学 的には用済みの娑婆塞ぎ以上のものではない、それどころか食物と酸素を一人前に 費消する危険な存在である。 人間は社会と文化とヒューマニズム、そして余剰の生産力のおかげで姥捨山を復 活させずにすんでいる。しかし、これも多くの老人が七、八十歳でポロポロ死んでいく からこそ今日なんとか保てている制度なのだ。実際、不老長生が実現するなら、まさ にその時こそ人類の危機であろう。 個人的に考えても、もし我々が永久の生を約束され、現状の我々の心性がそのま ま永生するとすれば、予想以上に厄介である。一体、終わりなき人生に耐えられる何 人(なんびと)がいよう? それは気の遠くなるような退屈である。 我々は、畢竟、死によって脅かされ、かつ救われているのだ。死後永遠の存続を熱 望する人々は近視眼的である。
* *
なるほど死は我々を恐れさせる。そして人は恐れさせない限り何かをしないし、何か をやめない。この「何か」とは人間のありとあらゆる愚行を指す。ところで、死の前にお いて人間に愚行以外の何ができるというのか?
* *
現代人は神を信じない。なぜなら、人間を相手に愛したり怒ったりする神はあまりに 人間的で信ずるに足りないし、逆に人間離れした超越的な神であれば信じても信じな くても一緒である。 かくて倫理の拠りどころは失われた。しかし、幸いなことに死が残っている。それは 人間が発明したものではない。えこひいきもなければ愛憎もなく、完全に超越的であ る。もちろん昔の神のように我々と契約を結んだりいろいろ便宜や試練を与えてはく れないだろうが、つねに我々一人一人の前に立ちふさがり胸を貸してくれる。 死は、我々が在るかぎり決して手の届かぬところにあって、しかも常時我々に問い かけている ー 汝の生はそれでよいのか、と。 この問いかけに応えつつ生きることが、今日の、そしておそらく将来の倫理を基礎づ ける。もし我々が、日常の幻惑や面妖な思い込みによって自らを欺かないならば。
* *
死は、我々にとって全く無関係なものかもしれない。しかし、死は一つの格率であ り、倫理的要請である。それはなければならない。」
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死は恩寵
死の功徳 p171〜
「生物には「死の戦略」なるものがあって、各発育段階の死亡率はそれなりの適応 的意味を有している。限られた生息領域と生活資源、および分布密度が生殖可能期 間と組み合わされて厳密に数学的な解析を許す合理性でその種(スピーシーズ)の 死をデザインしている。多くの個体には死んでもらわねばならないのである。そして全 ての個体が最後に死なねばならない。さもなければ種全体が亡びる。この本体が亡 びないためには、たくさんの幼生が間引きされ、かつ生殖期を越えた成体にも増大し ていく死亡率を課さねばならない。 老年の意義とは、人間社会内部でこそあれこれのメリットを考え得るにせよ、生物学 的には用済みの娑婆塞ぎ以上のものではない、それどころか食物と酸素を一人前に 費消する危険な存在である。 人間は社会と文化とヒューマニズム、そして余剰の生産力のおかげで姥捨山を復 活させずにすんでいる。しかし、これも多くの老人が七、八十歳でポロポロ死んでいく からこそ今日なんとか保てている制度なのだ。実際、不老長生が実現するなら、まさ にその時こそ人類の危機であろう。 個人的に考えても、もし我々が永久の生を約束され、現状の我々の心性がそのま ま永生するとすれば、予想以上に厄介である。一体、終わりなき人生に耐えられる何 人(なんびと)がいよう? それは気の遠くなるような退屈である。 我々は、畢竟、死によって脅かされ、かつ救われているのだ。死後永遠の存続を熱 望する人々は近視眼的である。
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なるほど死は我々を恐れさせる。そして人は恐れさせない限り何かをしないし、何か をやめない。この「何か」とは人間のありとあらゆる愚行を指す。ところで、死の前にお いて人間に愚行以外の何ができるというのか?
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現代人は神を信じない。なぜなら、人間を相手に愛したり怒ったりする神はあまりに 人間的で信ずるに足りないし、逆に人間離れした超越的な神であれば信じても信じな くても一緒である。 かくて倫理の拠りどころは失われた。しかし、幸いなことに死が残っている。それは 人間が発明したものではない。えこひいきもなければ愛憎もなく、完全に超越的であ る。もちろん昔の神のように我々と契約を結んだりいろいろ便宜や試練を与えてはく れないだろうが、つねに我々一人一人の前に立ちふさがり胸を貸してくれる。 死は、我々が在るかぎり決して手の届かぬところにあって、しかも常時我々に問い かけている ー 汝の生はそれでよいのか、と。 この問いかけに応えつつ生きることが、今日の、そしておそらく将来の倫理を基礎づ ける。もし我々が、日常の幻惑や面妖な思い込みによって自らを欺かないならば。
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死は、我々にとって全く無関係なものかもしれない。しかし、死は一つの格率であ り、倫理的要請である。それはなければならない。」
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死は恩寵
posted by Fukutake at 08:02| 日記