「本居宣長 下」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年
文字なき世 p208〜
「宣長は「古語拾遺」を重んじていた。その序に、「上古之世、未有文字、貴賎老少、 口口相伝、前言往行、存而不忘」とある。今の世で、物識りと言われるほどの人なら、 知らぬものはない言葉だが、いつの間にか、それほど名高い言葉となったという事 は、宣長に言わせれば、この上古の人々の間に、生きて働いていた口口相伝の言 が、文字に預けられて以来、固定した智識となって、死んで了ったことを語ってもいる のである。教養とか知能とかいうものを測る標準が、基本的には、読み書きが出来る 出来ないで定まって了い、誰もこれを疑わない世となっては、そのような事を気に掛 ける人もいない。
文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだ けで、支障なく続けられていたのは何故か。言葉といえば、話し言葉があれば足りた からだ。意味内容で、はち切れんばかりになっている。己の肉声の充実感が、世人め いめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を 欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、個人の言語経験の広大深刻な味 いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆する事が出来た。「書契以来、不好談 古」と言った斎部宿禰(いんべのすくね)の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要があ る事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。
先きに、宣長が歩いた「古事記」注解という「廻り道」について述べたが、彼が、非常 な忍耐で、ひたすら接触をつづけた「皇国(ミクニ)の古言」とは、注解の初めにあるよ うに、「ただに其ノ事のあるかたちのままに、やすく云初名(イヒソメナ)づけ初(ソメ)た ることにして、さらに深き理などを思ひて言へる物には非れば」、ー という、そういう 言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考え られぬほど優性だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という 言葉を持ち出した時、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深 く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさ せる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生れた、という事、言葉の 意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そ のあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたとい う、全く簡明な事実に、改めて、注意を促したのだ。情(ココロ)の動きに直結する肉声 の持つニュアンスは、極めて微妙なもので、話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思 い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉と いう物を、そのような、「たましひ」を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに 自然な事だったのである。」
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2021年06月21日
たましひを持つ生きている言葉
posted by Fukutake at 07:55| 日記
2021年06月20日
軽妙なエッセイ
「夜中の薔薇」 向田邦子 講談社
頭中将 p73〜
「漢字を覚える時期によそ見をしていたんでしょう、私は、読めても書けないタチで、よく字を間違えます。霞町に住んでいた時分、どうも人さまからくる手紙と私の書く霞の字が違うので、突き合わせて辞書を引いたら、私のほうが間違っていました。
この始末ですから、人さまを笑えた義理ではないのですが、私に輪をかけたのがタレントさん方で、みなさん駄ジャレやちょっとした冗談はお上手ですが、字は苦手のようです。紅白粉(べにおしろい)はベニシロコ、断食(だんじき)はダンショクになります。
ついこの間、「源氏物語」の本読みで、たのしい思いをしました。難しい役名は、最初に登場する時に、ふり仮名をつけます。朧月夜尚侍(おぼろづきよのないしのすけ)という具合にです。ところが二度目からはキリがないのでふり仮名はしませんから、自信のない向きは、読む声が小さくなります。当日の傑作は、頭中将をアタマノタイショウ。小侍従(こじじゅう)を(ショウジュウジュウ)と呼んで、みんなを笑わせぐっとくだけた気分にして下さった方でした。」
(現代/1980・1)
楽しむ酒 p140〜
「金髪碧眼と言いたいところですが、髪はほとんど真白でした。鶴よりももっと痩せていました。年は七十をすこし出たところでしょうか。かなりの長身に、黒っぽいスーツでシャンと背筋をのばして、その紳士は一人でダイニング・ルームへ入って来ました。
ベルギーの首都ブラッセルの一流ホテルでした。夜の七時を少し廻った頃だと思います。紳士は窓ぎわに座ると、気の遠くなるほど時間をかけて、ゆっくりとメニューに目を通しました。
やっと決まって、まず食卓にパンが運ばれました。籠に入ったフランス・パンです。次に、グラス一ぱいの赤ワインがつがれました。紳士は、フランス・パンを千切り、赤ワインを浸して、ゆっくりと食べはじめました。新聞をひろげ、窓から夜景を眺めながら、紳士は二切れ目のパンにとりかかります。
運ばれてきたのは、舌平目のムニエルでした。紳士はゆっくりと食べ、皿に残したバタ・ソースをパンで拭うようにして食べました。犬がなめたようにピカピカの皿を返したあと、小さなコーヒーで終わりでした。
片手をあげて勘定を頼み、いくばくかのチップを銀色の盆に残して紳士はゆっくりと出てゆきました。
私は感心して眺めていました。老紳士のしたことは、長い間私たちがしてはいけないこととして固く戒められていることばかりです。…しかし、老紳士は不思議に魅力的にみえました。堂々として自然でした。一人きりのディナーを楽しんでいました。これでいいのだと思いました。…」
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頭中将 p73〜
「漢字を覚える時期によそ見をしていたんでしょう、私は、読めても書けないタチで、よく字を間違えます。霞町に住んでいた時分、どうも人さまからくる手紙と私の書く霞の字が違うので、突き合わせて辞書を引いたら、私のほうが間違っていました。
この始末ですから、人さまを笑えた義理ではないのですが、私に輪をかけたのがタレントさん方で、みなさん駄ジャレやちょっとした冗談はお上手ですが、字は苦手のようです。紅白粉(べにおしろい)はベニシロコ、断食(だんじき)はダンショクになります。
ついこの間、「源氏物語」の本読みで、たのしい思いをしました。難しい役名は、最初に登場する時に、ふり仮名をつけます。朧月夜尚侍(おぼろづきよのないしのすけ)という具合にです。ところが二度目からはキリがないのでふり仮名はしませんから、自信のない向きは、読む声が小さくなります。当日の傑作は、頭中将をアタマノタイショウ。小侍従(こじじゅう)を(ショウジュウジュウ)と呼んで、みんなを笑わせぐっとくだけた気分にして下さった方でした。」
(現代/1980・1)
楽しむ酒 p140〜
「金髪碧眼と言いたいところですが、髪はほとんど真白でした。鶴よりももっと痩せていました。年は七十をすこし出たところでしょうか。かなりの長身に、黒っぽいスーツでシャンと背筋をのばして、その紳士は一人でダイニング・ルームへ入って来ました。
ベルギーの首都ブラッセルの一流ホテルでした。夜の七時を少し廻った頃だと思います。紳士は窓ぎわに座ると、気の遠くなるほど時間をかけて、ゆっくりとメニューに目を通しました。
やっと決まって、まず食卓にパンが運ばれました。籠に入ったフランス・パンです。次に、グラス一ぱいの赤ワインがつがれました。紳士は、フランス・パンを千切り、赤ワインを浸して、ゆっくりと食べはじめました。新聞をひろげ、窓から夜景を眺めながら、紳士は二切れ目のパンにとりかかります。
運ばれてきたのは、舌平目のムニエルでした。紳士はゆっくりと食べ、皿に残したバタ・ソースをパンで拭うようにして食べました。犬がなめたようにピカピカの皿を返したあと、小さなコーヒーで終わりでした。
片手をあげて勘定を頼み、いくばくかのチップを銀色の盆に残して紳士はゆっくりと出てゆきました。
私は感心して眺めていました。老紳士のしたことは、長い間私たちがしてはいけないこととして固く戒められていることばかりです。…しかし、老紳士は不思議に魅力的にみえました。堂々として自然でした。一人きりのディナーを楽しんでいました。これでいいのだと思いました。…」
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posted by Fukutake at 07:24| 日記
太秦の仏像たち
「井伏鱒二全集 第十一巻」 筑摩書房 昭和四十年
京都 p95〜
「…私が中學を出たのは三十何年前である。その年の秋、私は早稲田に入學して、それから三年目か四年目の春、そのころ京都の學校にゐた友人の下宿に行つた。そのときは、べつだん美術商のうちを見たいとも思わなかつたが、私は友人に連れられて飲屋に行く途中、偶然その店の前を通つた。また日が暮れて間もないのに戸は閉じてゐた。その夜、私の友人飲屋で、太秦の或る寺の若い坊さんを私に紹介した。中學生の服をきた若い坊さんで、不斷この飲屋で私の友人とよく顔を合せて親しくしてゐるさうであつた。前々からの約束と見え、私の友人が「明日、あんたのところのお寺、見物させてくれないか。この友達と一緒に行くからね」と云ふと、中學生の坊さんはすぐに承知した。その太秦の寺は由緒ふかいのである。佛像も大したものが納つてゐる。
翌日、私の友人は學生服や角帽にブラシをかけた。靴も磨いた。私は、よれよれの袴をはいてゐたが。下駄は新しいのをはいて友人に連れて行つてもらつた。中學生の坊さんは、先ず境内の古めかしい井戸を私たちに見せ、次に金堂の軒の反り工合について説明し、その堂内の佛像を見せてくれた。何體もの金銅佛の手の指が私には印象的であつた。中學生の坊さんは、聖徳太子の像の前に私たちを連れて行き。自分でも惚れ惚れとそれを見ながら特徴を説明した。この見物がすむと、修繕して間もない六角堂のなかに連れて行つてくれた。左手の隅に、二た抱へもあるやうな木彫の佛様の頭があつた。「樓門の天井に抛り込んであつたんです」と中學生が説明した。正面右手に一寸二三分ぐらゐの高さの佛像が、段々に何十體となく並べてあつた。「これは昔の人が、一刀三禮して、刻んだ尊い像です」と中學生が云つた。その佛像は均等な間隔で並んでゐたが、五六箇所か六七箇所、ところどころ齒が抜けたやうに隙間が出来てゐた。
「あれは、どうしたのだらう」と私の友人がきくと、中學生は、「膠がとれてゐます」と云つて、ためしに一つの像を持ち上げて見せた。佛像の足の裏に膠がとれてゐて、䑓の上に危なく立つてゐるだけなのが知れた。「それで、齒が抜けたやうにたつてゐるのは、修繕に出したんですか」と友人が聞くと、中學生はいまいましさうに、「いえ、ここの齒が抜けたところは何々博士が持つていらしゃいました。ここのは、何々さんがお持ちになりました…」といちいち齒抜けの由来を説明した。「では、我々も持つて行つていいのかね」と友人が云ふと、中學生は「それは公徳心の問題です」と云つた。…」
(昭和二十七年十一月執筆)
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井伏鱒二の名文、何気ない文章でも読ませる。
京都 p95〜
「…私が中學を出たのは三十何年前である。その年の秋、私は早稲田に入學して、それから三年目か四年目の春、そのころ京都の學校にゐた友人の下宿に行つた。そのときは、べつだん美術商のうちを見たいとも思わなかつたが、私は友人に連れられて飲屋に行く途中、偶然その店の前を通つた。また日が暮れて間もないのに戸は閉じてゐた。その夜、私の友人飲屋で、太秦の或る寺の若い坊さんを私に紹介した。中學生の服をきた若い坊さんで、不斷この飲屋で私の友人とよく顔を合せて親しくしてゐるさうであつた。前々からの約束と見え、私の友人が「明日、あんたのところのお寺、見物させてくれないか。この友達と一緒に行くからね」と云ふと、中學生の坊さんはすぐに承知した。その太秦の寺は由緒ふかいのである。佛像も大したものが納つてゐる。
翌日、私の友人は學生服や角帽にブラシをかけた。靴も磨いた。私は、よれよれの袴をはいてゐたが。下駄は新しいのをはいて友人に連れて行つてもらつた。中學生の坊さんは、先ず境内の古めかしい井戸を私たちに見せ、次に金堂の軒の反り工合について説明し、その堂内の佛像を見せてくれた。何體もの金銅佛の手の指が私には印象的であつた。中學生の坊さんは、聖徳太子の像の前に私たちを連れて行き。自分でも惚れ惚れとそれを見ながら特徴を説明した。この見物がすむと、修繕して間もない六角堂のなかに連れて行つてくれた。左手の隅に、二た抱へもあるやうな木彫の佛様の頭があつた。「樓門の天井に抛り込んであつたんです」と中學生が説明した。正面右手に一寸二三分ぐらゐの高さの佛像が、段々に何十體となく並べてあつた。「これは昔の人が、一刀三禮して、刻んだ尊い像です」と中學生が云つた。その佛像は均等な間隔で並んでゐたが、五六箇所か六七箇所、ところどころ齒が抜けたやうに隙間が出来てゐた。
「あれは、どうしたのだらう」と私の友人がきくと、中學生は、「膠がとれてゐます」と云つて、ためしに一つの像を持ち上げて見せた。佛像の足の裏に膠がとれてゐて、䑓の上に危なく立つてゐるだけなのが知れた。「それで、齒が抜けたやうにたつてゐるのは、修繕に出したんですか」と友人が聞くと、中學生はいまいましさうに、「いえ、ここの齒が抜けたところは何々博士が持つていらしゃいました。ここのは、何々さんがお持ちになりました…」といちいち齒抜けの由来を説明した。「では、我々も持つて行つていいのかね」と友人が云ふと、中學生は「それは公徳心の問題です」と云つた。…」
(昭和二十七年十一月執筆)
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井伏鱒二の名文、何気ない文章でも読ませる。
posted by Fukutake at 07:20| 日記