2021年06月23日

正しいこと

「プラトン全集15」岩波書店 

「正しさについて」より抜粋 p38〜

 「…ソクラテス 「正しいもの」と「不正なもの」は、どんな道具を用いて調べるなら、われわれははっきり識別するだろうか。また、道具とともに、それより前にどんな技術によってかね。これでも、まだ君は明らかではないかね。
友 明らかではありません。
ソクラテス それでは、もう一度、こういうふうに考えてみたまえ。われわれが、大きいものと小さいものにつて意見が分かれる場合、われわれに裁定を下すのは誰かね。測量家ではないかね。
友 そうです。
ソクラテス それでは、正不正についてはどうかね。答えたまえ。
友 わかりません。
ソクラテス 「言論を用いて」と言いたまえ。
友 はい。
ソクラテス してみると、裁判官が正不正について判定する場合に、われわれに裁定を下すのは言論を用いてだね。
友 そうです。
ソクラテス そして、また、たった今われわれが同意したように、裁判官が「正しいもの」と「不正なもの」についてわれわれに判定を下すのは言論を用いることによってである。言論は、それによってこれらのものが判定されるものだったね。
友 見事なおっしゃりようです。ソクラテス。
ソクラテス ではそれは、「正しいもの」と「不正なもの」がいったい何であるかなのか。たとえば、誰かがわれわれに次のように尋ねた場合には、すなわち、ものさしや測量術や測量家は大きいものと小さいものを裁定するのだから、それはその大きいものと小さいものが何であってのことか、と誰に尋ねた場合には、われわれは彼に、より大きいものというのは超過したものであり、より小さいものとは超過されたものだからだ、と言うだろう。…これとちょうど同じように、もし言論や裁判所や裁判官は正しいものと不正なものをわれわれのために裁定してくれるのだから、それはその「正しいもの」と「不正なもの」がいったい何であるからなのか、とひとがわれわれに尋ねたならば、われわれはその人に何と答えることができるだろうか。それとも、われわれはこれでもまだ答えることができないだろうか。
友 ええ、できません。

ソクラテス さあ、では、正しいのはどちらだと思う? 偽りを言うことかね、それとも真実を言うことかね。
友 むろん、真実を言うことです。
ソクラテス すると、偽りを言うことは不正だね。また、正しいのは欺くことかね、それとも欺かないことかね。
友 むろん、欺かないことです。
ソクラテス すると、欺くことは不正だね。では、はたして、敵に対しても同様だろうか。
友 決してそうではありません。
ソクラテス ではまた、たとえ欺いても、敵を害することは正しいことではないかね。
友 まったくそうです。
ソクラテス では、われわれが彼ら(敵)を欺いて害をあたえるために、偽りを言うことはどうかね、これも正しいことではないかね。
友 そうです。
ソクラテス しかしそうすると、欺いて益することは正しいが、偽りを言って益することはそうではないのか、それとも偽りを言ってもやはり正しいのだろうか。
友 偽りを言っても正しいです。
ソクラテス すると、どうやら、偽りを言うことと真実を言うことは、正しいことでもあり、不正なことでもあるらしい。
友 ええ。
ソクラテス すると、どうやら、これらすべてのことはみな同じで、正しいことでもあり、かつ不正なことでもあるらしい。
友 私にはたしかに、そう思われます。
ソクラテス では、同じものに対して一方は正しいことであり、他方は不正なことであると言うのだから、君は、どちらが正しく、どちらが不正であるか言うことができるかね。
友 それなら、私の考えでは、それらのことのひとつひとつが、しかるべき、時宜にかなったときに為されるならばそれが正しく、他方、しかるべきときに為されるならば不正です。…
ソクラテス すると、また、偽りを言い、欺き、益することも、知っている人は、しかるべき、時宜になかったときに、それらいちいちのことを為すことができるが、知らない人はできないのではないか。
友 おっしゃるとおりです。
ソクラテス したがって正しい人は、知識によって正しくあるのである。
友 そうです。
ソクラテス では、不正な人が不正なのは、正しい人がそうであるのとは反対のものによるのではないかね。
友 そのようにみえます。
ソクラテス そうすると、不正な人は無知によって不正なのだ。
友 そのようです。
ソクラテス ところで、人間が無知であるのは故意に(すき好んで)かね、それとも、不本意ながら(心ならずも)かね。
友 不本意ながらです。
ソクラテス すると、不正であるのもまた不本意ながらではないか。
友 そのようにみえます。
ソクラテス してみると、不本意ながら(意に反して)あることのためなのだね。
友 まったくそうです。
ソクラテス しかし、決して、不本意ながらあることからは故意に(意識的に)することは生じないのではないか。
友 ええ、決して生ずることはありません。
ソクラテス ところが、不正であることから不正行為は生ずるのだ。
友 そうです。
ソクラテス しかるに、不正であることは不本意なことである。
友 不本意なことです。
ソクラテス したがって、そういう人たちが不正を為し、不正な人間であり、邪悪であるのは、不本意ながらなのだ。」

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『法律』では、不正なる者は邪悪であるが、邪悪な人は不本意ながら悪くあると言われている。

posted by Fukutake at 06:03| 日記

2021年06月22日

対話の喜び

「本居宣長 下」 小林秀雄 新潮文庫 平成四年

神話の言霊(コトダマ)とプラトンの文章の表現力 p265〜

「(プラトンの対話篇「パイドロス」での)ソクラテスの相手のパイドロスは、民主制下 にあった当時のアテナイの一般的知識人の風として、議会や法廷の演説を通じて発 達した弁論術雄弁術(レトリック)というものを重んじていた。だが、どんな雄弁家も、 聴衆の思惑に無智でいては、その説得など思いも寄るまい。それなら、相手の思わく に通じて、これに上手におもねれば、説得など訳もないとも言えるわけで、上手に人 を説得するのと物事を正しく考えるのとは、ひどく違った事だ。ソクラテスは、説得と思 惟とを、根本的に異なった心の働きするまで、考えを進めるのである。しかし、国政を 論じ、世論を動かし、成功の道を人々に開いて見せている雄弁術に慣れた人々に は、ソクラテスの洞察は、容易には目に這入らない。そこで、雄弁術を高く評価してい るパイドロスの誤りが、ソクラテスによって、次々に論破されるように、「パイドロス」の 対話は進行することになるのだが、もっとよく見てみよう。この「対話」で、ソクラテス は、決して相手を説得しようとはしていないし、第一、相手の思わくなど眼中にないの である 先きに、対話の形式を決定的に取って完成したプラトンの文学的表現の魅力を言っ たが、「パイドロス」という思想劇、こん場合、登場人物は二人だけだが、プラトンの全 対話篇を、自立した思想劇と観じ、そのどういう所が、読者の心を捕えて離さないの か、その魅力を分析的に吟味してみるがいい。それは、作者プラトンから、劇の主役 を振られたソクラテスという人間、その考え方、生き方に行き着くと感ぜざるを得ま い。
繰り返して言おう。どんな主義主張にも捕われず、ひたすら正しく考えようとしてい るこの人間には、他人の思わくなど気にしている科白は一つもないのだ。彼の表現 は、驚くほどの率直と無私とに貫かれ、其処に躍動するリズムが生まれ、それが劇全 体の運動を領している。どの登場人物も、皆、何時の間にか、このリズムの発生源に 引き寄せられている。言い代えれば、プラトンの思想劇は、ソクラテスとの問答という 単位から構成されているが、この単位も、考え詰めて行けば、その極限で、ソクラテス 自身の自問自答という純粋な形を取るようになるところに、劇の生命力がある。そう 見ていいと思う。対話篇の真実さなり、力強さなりに引かれる読者は、知らずして、こ の生命力に倣う、そう考えるより他はないだろう。...

プラトンの対話篇を通じて扱われている真の主題は、正しく思索する力というもの、 正しく語る力以外のものではないと極言して差支えない。劇の主役としてのソクラテス に即して言えば、対話篇の進行とは、人と人との間の対話に喜びを生み出し、これを 生かしているもの、言わば対話の魂と呼ぶべきものにめぐり会い、これを信じ、その 自然な動きに随えば足りるとした、そういう風に言ってもいいと思われる。」

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正しく語る。
posted by Fukutake at 07:37| 日記

2021年06月21日

Why I Write

「オーウェル評論集」 小野寺健 編訳 岩波文庫 1982年

作家はなぜ書くか p11〜
 「…作家はそもそも物を書くようになる以前に、すくなくとも多少は一生ついてまわる感情的な姿勢を身につけるはずである。言うまでもなく、作家である以上は自分の気質を律して、未熟な段階や偏った気質を脱するように努力するのは当然である。しかし若いころにうけた影響から完全に脱却してしまうなら、物を書く動機自体の命を絶ってしまうことになるだろう。生活費をかせぐ必要を別にすれば、物を書くには−−すくなくともそれが散文のばあい−−大きくわけて四つの動機があると思う。その四つには作家によって程度の差もあり、一人の作家についても、時に応じてその生活環境によって比率が変わるだろうが、以下にそれを並べてみる。
• 純然たるエゴイズム。頭がいいと思われたい、有名になりたい、死後に名声をのこしたい、子供のころに自分をいじめた連中を大人になったところを見返してやりたいといった動機。こう言うものが一つの動機であることを否定して格好をつけてみたところで、それはごまかしでしかない。その点では、作家といえども科学者、芸術家、政治家、法律家、軍人、大実業家−−要するに人類の最上層にいる人間となんら変わるところはないのだ。人類の大部分はそう自己中心的ではない。三十をこす頃になると個人的な野心など捨ててしまい−−それどころか、そもそも個人としての意識さえ捨てたのも同然になって−−他人の生活のために生きるようになるか、骨が折れるだけの労働の中で窒息してしまうものだ。ところが一方には、少数ながら死ぬまで自分の人生を貫徹しようという決意を抱いている、才能のある強情な人間がいるもので、作家はこの種の人間なのである。れっきとした作家はだいたいにおいて、金銭的関心ではかなわなくとも、虚栄心となるとジャーナリズム以上につよく、自己中心的だと言っていいだろう。
•  美への情熱。外的な世界のなかの美、あるいは言葉とその正しい排列にたいする感受性。ある音とある音がぶつかって生じる衝撃、すぐれた散文の緻密強靭な構成、あるいはすぐれた物語のもっているリズムを楽しむ心、自分が貴重で見逃せないと思う体験を他人にもつたえたくなる欲望。こういう美的な動機にきわめて乏しい作家はいくらでもいるが、反面パンフレットや教科書の執筆者にも、功利的な理由とはかかわりなく自分が好きでたまらない言葉とか句があるものだ。あるいは、活字の組みとか、ページの余白のあけかたなどうるさいといったばあいもあるだろう。鉄道の時刻表ならともかく、それ以上の本には、必ずなんらかの美的関心がはらわれているものである。
•  歴史的衝動。物事をあるがままに見、真相をたしかめて、これを子孫のために記録しておきたいという欲望。
•  政治的目的−−この「政治的」はもっとも広い意味で用いる。世界をある一定方向に動かしたい、世の人びとが理想とする社会観を変えたいという欲望。このばあいも、なんからの政治的偏向がまったくない本というものはありえない。芸術は政治にかかわるべきではないという主張も、それ自体が一つの政治的な態度なのである。

 私は平和な時代だったならば、政治的誠実などということはほとんど意識することさえなかったかもしれない。ところがそうはいかず、否応なしに一種の時事評論家になってしまったのである。」
(why I Write (1946))

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posted by Fukutake at 08:00| 日記